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喫茶店のばあちゃんが「夜が怖い」というから

商店街を行き交う人を眺められ、さざ波のようにお客の話し声が響く。この街は老人が多く、お気に入りの喫茶店はいつ行っても“寄り合い”がひらかれている。寄せてはひいていく会話の中身は、ほとんどないと言っていい。「あそこの野菜が安い」だの、「いつも何曜日にくる〇〇さんは苦手」だの、だれも耳を傾けない自慢話から、ゴシップ、スーパーのお得情報まで。チラシの裏に書いて捨てたい話の大安売りだ。でも、たまに人生の格言めいたものが落ちていたりするから、ついつい盗み聞きしてしまう。

あるばあちゃんが言った。
「ここのところ、夜が怖い」と。

これは、はじまった。悪いこととは知りつつ、好奇心には勝てない。マギー審司サイズで聞き耳を立てる。

「ほら、うちお父さんが亡くなってから、家に誰もいないでしょう。ガランとしてて、怖いのよ。泥棒が来ても誰も助けてくれないし、私が死んでも誰も気づかないんじゃないかって……」

夫が亡くなって、心細い。夜になると、それが一層色濃くなる。孤独を恐れ、今日寝たら目覚めないかも知れないと、悲劇のヒロインと同じ哀しい声で語った。ここに訪れる老人の多くは、「いつ死ぬかわからないから、いいの!」がジョークになる世界の人たちなのだけど、彼女は違うようだった。誰しも感じたことがある夜の怖さも、歳を重ねて知っている闇の数だけ、底が深くなるだろうか。

そして、ふと心によぎったのは「あの人は、夜が怖かったのだろうか」という想いだった。父のことだ。

・・・

10数年前のまだ寒い春、父は息をひきとった。私は高校三年生で、卒業間近というときだった。ぜんそくの持病があり、重い発作を起こして入院。昔から定期的に入退院を繰り返していたけれど、ここまで酷いのは初めてだった。入院して数日後に昏睡状態になり、一時は意識を取り戻したものの、回復せず、そのまま。正直、そのときの記憶はもう曖昧だ。というかぼんやり覚えているくらいがちょうどいいと思っている。もう随分と前のことなのに、思い返している今も泣きそうになるくらいなのだから。

「今日がヤマ」といわれた昏睡状態から目を覚まし、「焼きそばが食べたい」と笑った夜。父は脳梗塞をおこし、意識を失い、自分で呼吸ができなくなった。医師は、人工呼吸器をつけて体を上下させる父を前にして「これは、もうダメかも知れんなぁ」と言った。病室にいたのは、私と母と父だけだった。あまりに配慮がない余命宣告に空白の数秒が流れ、自分の指先がみるみる冷たくなっていく。母は訳がわからないながらも、「そんな言いかたあります!?」と沸騰したような声をだした。本当にあんまりだった。私は感情の渦に振り回されて何もできず、脳内で戦争映画を上映しているみたいだった。

医師は病状の説明をしたあと、延命処置を続けるかどうか決めてほしい、と言う。奇跡体験アンビリーバボーなら、数年後に意識を取り戻すところだけど、その可能性は低いらしい。とにかく、植物状態になってしまったから、今後をどうするか決めなければいけないのだ。超ヘビー級の人生の選択がふってきた。

我が家は、両親と私が真ん中っ子の三姉妹で構成されていた。父を除く女4人が病院のすみにあるくすんだ色のソファに腰掛けて、かすれた声で話しあう。この話し合いは今思い出しても不思議なくらい、時間がかからなかった。満場一致で決着がついたのだ。私たちは、生命を維持する機械を止めることにした。

私からみた父はあまり褒められた人ではなかった。死人を悪くいうと、怒られるかも知れないけど、本当だ。自分の弱みを隠すように家族に強くあたることがあり、家庭にはいくつか不機嫌の地雷が埋まっていた。自分に余裕がなくなると怒りだし、怒ると手が出る、超めんどくさいやつだった。でも、小さい頃は本当に随分と可愛がってもらった。仕事仲間には優しくて、誰よりも母を愛した。今思い返すと、きっと不器用だったんだろうと思う。ほんまに、アホたれ男。

あのとき、いの一番に「父なら延命治療は止めてほしいと言うと思う」といったのは私だった。淀みなく、そう思った。色々語りたいことはあるけれど、これ以上書くのもよくない気がしている。あのとき、母はどう思っただろうか。父は、これを知ったらどう思うのだろうか。当時18歳だった私は、本当に正しい選択ができたのだろうか。

きっと、あそこにいた誰もが自分を責めながら、戻れない日に手を伸ばしている。


・・・

私も夜が怖い。色んな闇が一緒になって、立体的に立ち上がってくるのだ。何年もかけてやっと日常が戻ったと思ったのに、父のことを思い出して、谷底に突き落とされたことも少なくなかった。そして、不幸の根源をすべて父になすりつけようとしたりもした。自分のペースでなんとか歩けるようになったのは、ここ数年といってもいい。

喫茶店のばあちゃんは、一緒に来ていた友だちに「また電話をよこすし、たまにお茶も飲みに行こう」となだめられて帰っていった。彼女の隣に誰かがいてくれる事実に安堵しながらも、心配になってくる。私は同じ状況にあったとき、打ち明けられる人がいないかもしれない。

先のことを悩んでも仕方がない。
いい機会だし、何かあったときのために、あとに残る人へ色々と書き残すことにした。

・・・

私に関わる全ての人へ
ご迷惑も多数おかけしましたが、生前にふくいと関わっていただき、ありがとうございました。

お葬式について
喪服を着た人が集まる葬式は望みません。なんなら葬式は最小限でいいので、宴会をひらいてください。各々好きな服を着て集い、好きに食べ飲み大いに盛り上がっていただけると幸いです。

遺影は、酒場のマスターが撮ってくれた写真がありますので、それを使ってください。本やネットに載せるときに使っている盛れてる1枚です。

お骨について
宇宙や海に行きたいとも思いませんし、ペンダントになるのはちょっと苦手です。(もち歩かれるのが、なんか居たたまれない)火葬でお願いします。お墓は入れるなら、どこでもいいです。

延命治療について
延命治療を望みません。奇跡が起きない限り、回復しない場合はあきらめてください。「絶対家に帰りたい!」とかもないので、病院で最期を迎えるのも問題ありません。

お願いするならば、人工呼吸器を使うことで輪郭が変わったり、床ズレがおきて、辛そうだと思われるのは、とても悲しいです。父がそうだったから。無理にとは言わないけど、早めに判断してくれるとありがたいです。

できれば最期は手を繋いで、頭を撫でてください。お願いします。

・・・

余命を宣告されたりしたら、気が変わって、もがいてでも生きたいと思うのだろうか。つらつらと書きながら感傷にひたったり、宗教にとらわれず、現時点ではお墓でもめることもなさそう、と現実を整理して、恵まれた環境にも感謝したりした。そして、残されるであろう誰かを考えると、自分がひとりじゃないことに気づくのだった。これらは、いつか旅立つときの心の支えになるような気もした。

自分の好きな夜を辿って、最期を思い描いたりもした。すごく唐突なのだが、私はお酒が大好きで。私にとって暗い夜を明るく彩るのは、赤提灯の大衆酒場なのだ。酒が飲めて、おいしいつまみが食べられて、何より老いも若きもみんな笑っている。最後を迎えるのならば、そんな夜がいい。

でもきっと、死ぬまで夜は怖いままだろうな。


最後に、父へ
そちらに夜はありますか?
あるならば、あたたかい夜であってほしい。

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