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学校で教えてくれないのは金とセックス

ぼくの「教育格差絶望社会」という本の一節です。
われながら、よくこんな断定的な文章を書いたよなあ(;^ω^) このときは何かが憑りついていたとしか言いようがないですね。それくらいの状態にならないと、一般的には語られてないことを、ズバッと書くなんてできません。

なぜ「格差」が流行るのか

格差という言葉には、単なる差とは違った重みがある。「格差とは格の差だ」といったイメージで、われわれはこの言葉を使っているのではないか。格差を辞書で引いてみると、こんなふうに説明されている。

大辞林 :同類のものの間における、価格・資格・等級・水準などの差。「―が拡大する」「―が生じる」「貸金―」
広辞苑 :商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差。「賃金―」

格差とは「同類のものの間に生じる差」とか「標準品に対する差」という意味らしい。同類とか標準が前提になっているから差が意識されてしまう、そんなときに使う言葉なのだ。「格の差」という理解はややナーバスなのかもしれない。

人間の能力や学力、所得に差があるのは当たり前のことだから、最近の格差論議は、われわれがまだ一億総中流の幻想にとらわれているということだ。あるいは、同じ日本人として許容しうる差と許容しえない差がなんとなくあって、その許容範囲を巡って議論しているのかもしれない。日本人と他国人との格差論議はないのだから。

経済格差にとどまらない目に見えない差

教育格差が単純に経済格差からくるものだったら、解決するのは難しくない。お金を配ればいいのである。財源の問題はあるにせよ、解決の道筋は見えていることになる。だが現実には、教育格差を生み出すのは経済力だけではないのだ。

フランスにブルデューという社会学者がいて、「ハビトゥス」という概念を提唱した。ハビトゥスは「文化資本」と訳されることが多い。それは後天的に習得するもので、本人の努力によって矯正することも不可能ではないが、容易に変えることはできず、本人の考え方や行動様式に大きな影響を及ぼす。ブルデューは、階級間には経済力による差だけではなく文化資本が存在しており、それを乗り越えるのは難しいとした。

簡単にいってしまうなら、家に本がいっぱいある家庭とまったくない家庭では、子どもが本を読むようになる確率は前者のほうがずっと高いということだ。あるいは、家にピアノがあって幼児期から聴きなれている者とそうでない者とでは、音楽的な素養に違いが出る。ハビトゥスは勉強、言語活動、芸術、社交などに表れ、その人の行動を制約するのである。

ブルデューは、家庭で子どもに伝達されるものを「資本」と呼び、それは三つに分類されるとした。まず経済力からストレートにくる経済資本、つぎに家庭にある本や芸術などの趣味からくる文化資本、そして友人や知人とのネットワークからくる社会関係資本である。

このうちどれを重要だと思っているかは、その人の属する階層や職種によって変わってくる。

下流は自分たちに欠けているのは純粋にお金であるとみなし、文化資本や社会関係資本には興味がない。目に見えない差が、まさに見えていないのである。

中流は(サラリーマン層なら)文化資本を重視する。お金も重視するが、社会関係資本には興味がない。筆者が育った家庭では、こんなふうに語られることが多かった。「やっぱりさ、家庭の雰囲気ってあるんだよ。知的な会話がある家庭とまったくない家庭じゃ違うでしょ」と。自分たちは知的であるという自負を持っているわけで、金よりも文化資本を重視する中流らしい考え方だ。

そして上流は社会関係資本こそ大きいのだと語ることが多い。

学校で学べないのは金とセックス

子どもたちは最初から持っているリソース(資源)に違いがある。経済資本だけでなく、文化資本や社会関係資本にも大きな差があり、それが複合的に教育格差となって表れるのだ。学校で教えてくれないことが大きい。

学校で教えてくれない一番大切なこと、それは金とセックスだ。もう少しきれいな言い方をするなら、仕事と結婚になる。

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