麻雀は創造的か? その1
麻雀は創造的か?
将棋の戦術というものは、30年くらい前から急速に人間らしさを失ってきた。それまでは「新手一生」といって、新しい手を“発見”することが最大の価値とされた。しかし今では新しい手を見つけても、すぐ情報が伝わるから1勝にしかならない。「新手一生」から「新手1勝」へと大幅に格下げされた。
新手を発見するよりも、実戦でいかにミスなく正確に指し続けられるかが現実には大きい。100点の手を指すことよりも、99点の手をどれだけ続けられるか。つまり、この30年あまりの変化として、新手を見つけて勝つというプラス思考から、どれだけミスを減らせるかというマイナス思考に転じた。
同じことは最近10年あまりの麻雀の戦術にもいえる。名手を出すよりも、どれだけ正確にミスせず打てるか。それが現代的な戦術の発想だ。「ひっかけ」や「忍耐」やダマテンなど、かつてあった人間臭さは消え去り、すべてが損得で計測されるようになった。
すなわち、将棋にしても、麻雀にしても、ゲームは創造性を発揮するキャンバスではなくなったのだ。将棋が強いのは将棋が強いことでしかないし、麻雀が強いのは麻雀が強いことでしかない。もはや人間力の勝負ではないし、競っているのは創造性ではなく精密さだ。
10年ほど前だと思うが、娘1号が習い事として歌の教室に通ってるといったとき、ぼくの父は「情操教育もいいよな」といった。歌が情操教育? 考えたこともない言葉にびっくりした。歌だって楽器だって、音楽は音楽。情操とは何の関係もない。それがぼくの発想だけど、情操を養うには音楽がいいと昔はいわれたらしい。
あらゆる分野で技術が進んだ結果、そこから人間臭さが消えてしまった。年配の人からすれば、情緒のないということになろうが、これは技術が進んだ結果でしかない。将棋だって麻雀だって、30年前の人と対戦したら勝つのは当たり前。神話をはぎとってしまえば、昔は本当にレベルが低かった。人間らしさの幻想という曇ったガラスを通して勝負を見ていた。
おそらく、その結果なのだろう。オカルチックなものが増えているのは。
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