地雷原にあるリズム
Step out of line 踏み外したとたん
Hit a mine 地雷がドカン
Follow the dink じいさんの足跡
You're in the pink ほんとにありがと
ティム・オブライエンの短編集"The Things They Carried." の一編"Spin"のなかにある、この詩がなんとなしに好きだ。 ピーマンとか、モヤシとか炒めているときに口ずさむと楽しい。
村上春樹が日本語訳をあてているけど、やはり断然英語の原文の方がリズムがあって気持ち良い。英語がからっきし駄目の僕でも、とても気持ちよい「韻踏み文」なのがわかる。
歌っていたベトナム戦争下にあったアメリカ兵士や、地雷発見のために彼らよりも先行させられていた'the dink'(ヴェトナム人の蔑称だ)のおじいさんのことを考えると、いささか悲しい気持ちになるけれど、口ずさんでいると断然楽しい。状況は恐ろしいけど、この歌を口ずさんでいたとき、地雷原にいたアメリカ兵も少しは「楽しかった」んじゃないか。不謹慎ながら(ほんとうに不謹慎ながら)僕はそう思ったりする。
平和のなかにだって苦しさや悲しさがあるように、戦争状態というか、命の危険を感じるところにだって楽しさとか美しさがあってもいい気がする。
テッド・ラヴェンダーがトランキライザーをやりすぎたときなんかがそうだった。
誰かが尋ねる、「よう、今日 の戦争どうだったい?」
するとテッド・ラヴェンダーはソフトで夢見心地の微笑みを浮かべる。
「メロウだねえ。 いや、今日の戦争は実にメロウだったよお」
[オブライエン 1990]
僕はこれをそのまま受け止めたい。
たとえトランキライザーが入っていたとしても、テッドにとってその日の戦争はとにかく「メロウ」だったのだ。そういうことってありそうな気がする。
たしか曽野綾子が、東京大空襲を引き合いに出しながら、戦争というのは「何の脈絡もなく、理由もなく突然命が奪われる状況である」みたいなことをいっていたのだけれど、厳密にいえば、平和といわれる現在だって何の理由もなく命は奪われうる。
子供はおもむろに歩道橋の上から投げ落とされるし、ナイフを持った人が学校に来て何人もの子供を殺したりする。記憶をたどれば、大人だって通勤途中の地下鉄でサリンを吸引することだってある。命が奪われることに「脈絡」なんてつけようがない。
戦争や平和を細かく定義しようと思えば思うほど、それらは単なる言葉になっていく。
「戦争」とか、「平和」は状況に貼られた付箋のタイトルみたいなものなのかもしれない。僕らが、現在の状況に、戦争だとか、平和だとか付箋をしているだけなのだろう。もちろん、宣戦布告と終戦宣言を、年表の頭に語ることはできる。世界大戦が何年に始まり、何年に終わったということはできる。でも、それも個々人が付箋を貼る際の多様な判断基準のひとつでしかない。
僕は、どうも今僕が生きている時代に「平和」という付箋を貼ることができない。「平和」と貼ってしまうことで、「戦争」に関すること(たとえばある種の象徴としての地雷原)を世界の向こう側に押しやってしまうような気がする。
戦争やら平和なんてものが単なるレッテルにしか過ぎないこと。そのことを自覚しておかないと、押しやった向こう側から何かとんでもないしっぺ返しをくらうような気がする。
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ティム・オブライエン 1998『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳)文藝春秋