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【中国文学1930s】巴金『家』~父の不在、家父長制の存在~

 授業で毎年必ず学生に紹介したいと思う作品、自身の視点で読んでほしい思う作品の一つに巴金の『家』がある。1931年に新聞連載を開始し、1933年に単行本にまとめられたこの作品が描くのは、東アジアに今も根強く残る家父長制が、家庭と社会のなかで極めて強い影響力を占めていた時代の悲劇である。

「父」はすでにいない。しかし「家父長制」から逃れられない。 

 作品の舞台は1920年代中国の地方都市である。おりしも五四運動に伴い、半封建と新文化の思想が陸続と紹介され始めた時代だった。地方都市の名士である高(ガオ)家の三兄弟は、西洋から来る新しい思想を吸収し、将来の変革を夢に見ていた。三兄弟の父はすでに亡い。高圧的な祖父が家を支配している。祖父、父の兄弟、孫の三世代が同居する邸宅のなかで、進歩を望む三兄弟への風当たりは厳しい。

長兄・覚新(ジュエシン)と長子の苦悩

 三男の覚慧(ジュエホイ)は進歩的な思想に最も強く共感し、反軍閥の学生運動に参加した。かれは若い小間使いの鳴鳳(ミンフォン)との結婚を望んでいるが、ふたりの前には身分の壁が立ちはだかる。
 長兄の覚新(ジュエシン)は祖父の長男の息子であり、一家の嫡男にあたる。いずれ大家族全体の家長の座を担う運命である。覚新は長男であるため、一族の財産を管理し、同居する祖父やおじ・おばにも気を配らねばならない。中学卒業後に父の命令で家業の手伝いをすることになり、大学進学と留学の夢をあきらめた過去がある。従妹に恋心を抱いていたが、父が見知らぬ女性との結婚を決めると、何の抵抗もせずその女性と結婚する。
 一家の家長である長男が、家の財産を使って進学することができない。覚新は父の意向で、進学も就職も結婚も「家」に縛られてしまう
 これは現代の日本でもよく耳にする話と似ている。「家業」「土地」「田」を持っているような家で、長男が「家」に残るよう求められるか、きょうだいの間で誰が地元に残るか決めねばならなくなり、進学や大学での専攻を制限される。女性に対してはいずれは結婚して「家」の扶養から出ていくこと、老後の面倒をみることが期待される。次男三男は比較的自由であるが、実家を継がずに就職するよう期待される。

少子高齢化・次男坊三男坊のいない世帯・少子世帯の閉塞

 『家』のなかでは三男坊の覚慧が最も進歩的である。しかし、少子高齢化が進む現代では、三男坊までいる家庭はめずらしい。少子高齢化が進む時代は、人口のより多くが長子の責任を背負う時代である。場合によっては、男兄弟がいないために女性が「家業」「家」を継ぐよう求められる。
 家父長制のもとであっても、次男坊三男坊には比較的自由が残されていた。少子化が進む時代にあっては、家を背負わず自由でいられる若者は少なくなる。現代日本で地方に留まることは、実質上就職や収入の面で大きな制限を課せられるのに等しい。近代中国でも、北京や上海など西洋化が進んだ都市と、地方の間には、経済や文化の面で巨大な格差が生じていた。
 また、人の移住は社会の流動性を作り出し、活気を生み出す。日本でも徐々に家父長制は揺らぎ、ジェンダー規範が揺らいではいるものの、それでも若い世代は「家」を無視することが難しくなっている。地方から都市へ、都市から地方へという、人の流れが生まれにくい時代閉塞感のなかをわれわれは生きている

 制度としての「家」は変わり得るのか

 巴金の『家』に戻ろう。作品の後半は女性たちの悲劇に満ちている。
 三男の覚慧は小間使いの女性鳴鳳を愛していたが、彼女は祖父の友人の妾にされることが決まり、自殺する。長男の覚新がかつて愛していた従妹は、気の進まない縁談を進められ、心労で死亡する。一方で、覚新の妻は、迷信を信じた親戚たちにより郊外で出産するよう命じられる。医療条件の整わない田舎での出産は危険を伴い、彼女は亡くなる。
 長兄は妻と恋人を守ることができなかった。
 愛する人々を次々と死に追いやった家庭に嫌気がさし、三男は家を出てゆく。
 この三男は、アナキズム(無政府主義)の理想を胸に故郷を飛び出した作家自身と似ている。権威や規範に縛られない作家のまなざしは、中国社会への深い分析を可能にし、『家』は一躍ベストセラーになる。
 一族のなかでは三兄弟が祖父の長男の家系にあたる。祖父の死後はその長男の長男である覚新が家長の地位を継ぐ。もし家長に絶対的権力があるなら、彼は親戚の反対を押し切れるはずである。しかし、若い家長と上の世代の親戚のあいだの関係は絶対的ではない。家長といえども上の世代を服従させることはできず、場合によっては上の世代に押し切られてしまうことがある。家長が新思想に共感を示しても、旧道徳が深く浸透した家を変えることは容易でない
 新思想を吸収したとしても、それだけでは愛する人を守れない。
 続編では、家の没落と解体が描かれる。
 現代日本でも、権威としての父はすでに影が薄い。しかし、父の不在は即座に子女の解放を意味しない。
 父の不在、家父長制の存在。
 社会はいまだ家父長制の影を抜け出すことができない。制度の破綻と没落は目に見えているが、社会で活躍しようとすればするほど、現行の制度に適応せざるを得ず、かえってその中に絡めとられてしまう。多少新思想のいぶきに触れたとしても、現状を変えることはできない。
 作中では若い世代が制度の欺瞞に気づき、「家」への服従を拒否し、古い制度の殻を飛び出してゆく。閉塞感を打ち破るのは、上の世代ではなく若い世代であり、順応ではなく反抗、制度への賛美ではなく否定である。もう一度、反抗や批判の理想を夢見ることはできるだろうか。


参考文献 

巴金著、飯塚朗訳『家』(上)(下)岩波書店、1956年。
篠原杏由美「巴金『激流三部曲』についての一考察――覚新の姿を中心として――」『未名』33、2015年。


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