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自分の「嫌い」を守ること

委員長 VS. イヤイヤ期の対立が起こっている。


急に何の話ですか。ごめんね前振りなかった。


俺の中の人たちが、絶賛喧嘩中なんです。
容赦ないし譲らないな君たち。

数日前、他の人の文章を読んだことをきっかけに出てきた「それ好きじゃない」とか「つまらん」とか言っちゃう人。2歳児。
通称・イヤイヤ期。(これ文章で打つだけでも結構ドキドキする。相当抑圧してきたんだろうな)

イヤイヤ期は、気持ちに素直で自由人。
わがままともいわれたりする。
自分の気持ちが優先。特にイヤ!嫌い!に対して敏感。世界観が自分優先なので、人の目とか気にせず表現する。

そしてそのイヤイヤ期の自由な振る舞いに対して、「なんて失礼なんだ!!!人様の大事な文をジャッジするなんて何事か!
そんなこと言うなー!お前は多様性を尊重するんだろうが!」って激おこな人。通称・委員長。

委員長は、真面目。規範意識が強くて、公平性や平等を大切にしている。人からどう見えるかを想像し、人が傷つくとか怒るかもしれないことに敏感。みんなが傷つかないように守りたい。

ちなみに委員長は、普段の俺の感覚に近い。
イヤイヤ期は、見つけたばっかりなのもあって馴染みが薄いし抵抗感もある。

でも、こうやって並べてみて、それぞれどんな感じなのかを感じていると。

意外にも、イヤイヤ期の体感は心地いいのだ。
清々しいというか、開放感がある。人目を気にしてなくて自由。ラク。
何より、自分の気持ちに正直で、心が晴れやか。

反して委員長の体感は、重たいし窮屈。
言ってることは納得感があるんだけど、まぁそうだね、という感じで心地良くはない。本人もなんか苦しそう。
正論は人を動かさないのだなぁ…ということが(実に残念なことに)わかる。

そして大切なことに気がついた。

好きじゃない、とか、面白くないな、とかは、優秀か劣ってるかとか、ましてや価値があるか無いかといったジャッジとは違う。
そう思った/感じたと、そう言っているのだ。
(俺の方が上手く書ける!とかは、嫉妬とか劣等感とか別のが入ってそうなので、これはまた別で考える)

何かに接して不快感を感じた時、その中には比較やジャッジも含まれていると思うけど、それと好き嫌いは、どうやら違うっぽい。
今まではこの辺がごっちゃになってた。

あっ、この辺まで考えると、委員長が「まぁ、そういうことなら…」と収まりつつある。
よかったよかった。

イヤイヤ期が目覚める前は、人を嫌っちゃいけない、否定しちゃいけないと思っていた。
というより、嫌いを感じた時のざわッとした体感覚が苦手で居心地悪くて、それなら自分の「なんか嫌だな」をスルーする方が簡単だった。

でも、そう思っている俺自身が、コレ好きじゃないな〜と感じている俺自身を嫌い、否定しているじゃないか。と気づいた。
だから、自分にも「嫌い」を向けられると「ふーん」ではすまなくて、否定されたように感じて反応しちゃうんじゃないか。

自分の中をよく見てみると、俺は、自分の嫌とか合わないの感覚は大事にしたいって思っているみたい。

嫌いは、好きと同じ、自分の輪郭を示してくれる大切な気持ちだって思っている。

「感情はエネルギーだよ」「大事にしたいことがそこにあるお知らせなんだよ」と教えてもらった。
抑圧したくないし、感じているのに認めないとか、ないことにすることはしたくない。

確かに「ある」ものを「そんなのないよ」って嘘をついた時から、何かがずれていく気がする。

イヤイヤ期は、その人そのものを否定していない。表現が自分好みでないとか、考え方や世界観が俺とは違うなって、言っているだけなのだ。
別に書いた本人のところにわざわざ出かけていって、コメント欄に「好きじゃないです」「面白くない」とか書いてない。なにそれひどい。やめなさい。

そうではなく、誰に迷惑をかけるでもなく、わざわざ読みに来ないと読めない自分のスペースで、個人が特定されない形で感想を述べている。
それ以上でも以下でもない。

俺、嫌いって言いたいんだな。
嫌いだな、合わないなって思ったことを、ただそう言いたいんだ。

自分の「好き」を守ってきたように、「嫌い」も同じ温度で守りたいんだ。
そうしてもいいんだって、思いたいんだ。

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