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うつくしいひとだね

やさしい顔で吾郎さんが言ってくれた時、思わず涙ぐんだ。

全く話す気もなく、自分でも忘れていた(というか深く抑圧してないことにしていた)ことを、なぜか話し始めた夜。
どこかで、いつかは誰かに聴いてほしかったんだと思う。

自分の感覚やアイデンティティにまつわる、一種のカミングアウトだった。

正直性別よりもずっと自分にとっては広範で、困ってて、でも極めて個人的で、でも物凄くリアルで、だから説明がすごくしにくくて、とにかくもてあますようなことの話を、ぽつぽつと話した。

夜の空気と、オレンジの光と、包み込むような肯定に抱かれて話す時間は、夢を見ているようだった。

ひた隠しにしてきた、心の奥底の清い泉に触れたような時間。
青く澄んだ湖が、自分の中にあるという自覚。

こんなこと、誰にも信じてもらえないだろうと思っていた。
厨二と笑われ、バカにされ、ひかれ、たしなめられ、スピと嘲られ、現実を見ろと言われ、忌み嫌われ、なんせ否定され否定され否定されるのだろうと思っていた。

小さな時から自分の感度や感受性が繊細で独特で、周囲と違うことをわかっていた。
だから選択するまでもなく、ないことにした。まともに開いていては、ましてや表現なんてしたら、生活できないと思った。

でも、本当はたぶん、ないことにしたくなかった。
自分の繊細な感覚への信頼を育み、その表現を磨き、それを使いこなせるようにのびのびと練習したかった。だってこれは俺らしさの核だから。
「どう感じるか」は、俺には体の性別以上に、魂のアイデンティティに近い。
「自分が何者であるか」の答えに極めて近いのが、俺が何をどう感じるか、だから。

そして望むなら、自分のその力を、俺がそうしたいと望んでいるように豊かさとして受け取り、そういう感性を含めた自分の全体性を、祝い喜んでもらいたかった。

そしたら、吾郎さんが今日その夢を叶えてくれた。

自分さえも否定して、諦めたことすら忘れていた願いを、いとも容易く掬い上げてくれた。

「自分を否定せず抑圧せず、俺のままで生きていきたい」
「俺のままで愛されたい」

こんなにあっけなく、さりげなく、たましいかけて握ってた願いが叶ってしまっていいんだろうか。いいらしい。

内側では「うわー‼︎‼︎隠してきたのに‼︎ひかれる!嫌われる!」って焦りと恐れでざわつく一方、大喜びしている人もいる。
忙しすぎる。

でも、俺はうつくしいひと。
大切な人がそう言ってくれた、みずみずしさと豊かさのある、うつくしいひと。

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