男友達を巡る、大きな喜びと少しの切なさ

小さな頃から学生時代にかけて、ごくうっすらと、けれどずーっと、男友達がほしかった。
そこにこもったニュアンスは、ただのその友人の性別を指すのではない。
説明するとしたら、「互いに男性だとみなしている、同性の、男友達」

また、同じ時期、俺はごくうっすらと、けれどずーっと、「僕」や「俺」と自分を称することに憧れていた。
それは、ただ単に自分をどう呼ぶかという意味合いを超えていた。
「自分を、男の子とみなされた上で、自分でも自然に僕や俺を使うこと」だった。

けれど、女子として生まれ育ち、女子児童・女子生徒として学生時代を過ごした俺には、それは殆ど空を飛ぶことくらいに遠いものに感じられていた。
当時はカミングアウトなんて夢のまた夢。というか、自分のことは「少なくとも女性ではない」くらいしかわからなくて、自分が何に困り、どれほど痛んでいるかさえ、ほぼわかっていなかった。

そんな俺にとっては、上にあげた二つは言ってみれば、どんなに願ったって叶わない願い。
だから、自分でも気づかないレベルで、早いうちに深く深く諦めて、願いがあったことすら忘れて日々を過ごしていた。

の、はずだったんだけど。

不思議なことに、最近これらの夢が叶って来ている。

* * * * * *

一人称の話からすると、今年に入ってからの一人称チャレンジを経て、今やほぼパーフェクトに近いくらい願いは叶っている。
家族を除いて、職場でも、友達にも、SNSでも一人称の変更を公表し、そして驚くことにそれらのフィードバックとして、

「hiRoのこと、ずっと男子として見てたから、全然違和感ない」
「そっちの方がしっくりくる」

なんて言われていたりする。やってみるもんだぜ、びっくり。

そして、だ。
肝心の、男友達。

これが、なんとまぁ出来て来ているのである。
トランス男子の友人は以前からいたし、俺は彼らといるのもとっても好きなんだけど、今までの人生でほぼ0といっていい、シスヘテロ男子の友人がぽつぽつできてきたんですよ。これに衝撃を受けている。

なお、それが誰かというと…

友人の子どもの、男児たち。

年齢は2歳から小6くらいと幅広い。笑

どうやって増えたかというと、

いろんな学びをしているうちに、年上の子持ちの友人が増える
→友人宅に遊びに行ったり、出先で会った際に同席している彼らと出会う
→一緒にいるうちに、友達になる

みたいな感じで、なんか特にここ最近増えた。

彼らは皆、素直で優しい。
俺は彼らといるのが、好きだ。

マイクラやスーパーマリオメーカーやフォートナイトやスマブラのやり方を教えてくれたり、
自分の書いた作文を読ませてくれたり、
大好きな恐竜や、虫や、色の話をしてくれたり、
カブトムシやセミの育て方や持ち方を教えてくれたり、
俺の膝に乗ったり、寄りかかったり、よじ登ったりしてくれる。
大事なもの、好きなものを、きらきらした目でいっぱい話してくれる。

俺は、カミングアウトして本来の自分で生き始めてようやく10年前後。
男性自認であることに少しずつ確信が増し、FtMであると表明し始めてから7ー8年くらい。
なので、実質10歳くらい、更に社会的な男歴でいうと8年くらい。
つまり小さな男友達は、俺の感覚としては心理的には同年代。笑

だからかわからないが、一緒にいると、なんだか心地いい。
一方、実年齢の同世代シスヘテロ男性とは、社会的な男歴に開きがありすぎて、俺が気後れしてしまう感じがする。
もしかしたら、小学校、中学、高校、大学や社会人…といった成長過程でゆっくり身につける男的思考や文化や振る舞いといったものの経験値が違いすぎて、男としての対等さを感じづらいのかもしれない。わからんけど。
なお、これはあくまで俺個人の感想ね。FtMでも(俺の観測範囲では大多数は)全然バリバリ、同年代のシスヘテロ男子とも普通に仲良くやってる人は多い。だから、単に俺が大人の男たちの文化や感覚に馴染めない説もある。

閑話休題。

話を戻して、小さな男友達との時間が、俺は好きなの。

でも。
実際には、俺は大人で彼らは子ども。
知識も経験も体格も責任も大きく違う中で、俺たちは完全には対等な友人になれない。
俺は大人で、子どもである彼らより権力を持ってしまっているから。これは厳然たる事実だ。
子ども側はいいけど、大人が「俺たちは対等だ」なんて思い始めたら、自分の権力に無自覚になる第一歩じゃないかと、俺は思う。

つまりは、俺は節度を持って彼らと付き合う必要があると感じている。友達である前に、大人だから。
だから本当は、同い年の男児として、君たちに出会いたかったな、なんて思いもあったりする。ただの友達になれたなら、もっと素敵だっただろう。


どうやら、願いは叶うらしい。たとえ今すぐでなくても。

これは大きな希望だ。人生への信頼が増す、大切な知恵だと思う。

けれど、今すぐ叶ってほしい、あるいはその時にこそ叶って欲しかった願いというのもある。
そう例えば、「彼らと同い年の男児として、彼らと出会い、友人になること」とかね。

「その時に叶ってほしかった」という少しの切なさを感じていることも、ないことにはしたくない。
そう感じる俺の中の一部も、他と変わらず大事なものだ。あるものを、ないことにしたくない。

ないことにしたくないからこそ、男友達に出会えた喜びと同時に、男児でいられなかった自分の切なさを同時に感じる。複雑な思いだ。

更に言うと、俺は本当は少し、彼らが羨ましい。

男児として生まれ育ち扱われ、男子中高生の時代を過ごしていける彼らが。
同性の男友達と、男子制服を着て、やいやい言いながら一緒に育っていける彼らが。
俺が得られなかった、そして二度と得られない、自然に男として過ごす子ども時代・学生時代を過ごしていく彼らが、少し、羨ましい。
だから、彼らといることは、尚一層複雑な思いもあったりする。

でも、今の俺だから知れたこと学べたことがあり、今の俺だから彼らと出会い友達になれた。これもまた、事実だ。

俺は俺の意志でもって、切なさにスペースを与えながらも、今のかけがえのなさを選び、今の人生をベストの正解にしていくつもり。
もしもの人生を追い求めたところで、どこにも行けないし。

俺は、この俺だから、彼らの同年代の友人たちに比べたら少し彼らをサポートしたり助けになりやすいかもしれない。それはきっと、俺だからできるかもしれないこと。
大切な友人を守る力を持つ自分で、良かったとも思う。

少し上の男友達として、君たちと、俺たちらしい素敵な関係を紡いでいけたら、俺、こんなに良いことはないと思うんだよ。

同じ男児として出会えなかったことは残念だけど、でも、君たちに出会えたことはとても嬉しい。

だから、年齢が離れてても、遠くに住んでいても、普段あんまり会わなくても。出会ってくれてありがとう。

俺と、男友達になってくれて、ありがとう。

みんな、おれのだいじな、ともだちだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?