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それぞれのギフトに祝福を

違っていてよかったと、最近とみに思うことが多い。

10月に友人のParkと場づくりのユニットを立ち上げてから、俺たちはとにかく一緒に過ごしてきた。
たくさんの時間そばにいて、たくさん話して、一緒にいくつかの場を作ってきた。

その中で何度も俺たちが話したのは、「俺とParkが、違っていて本当によかった」ということ。

一緒にやってみて思ったけど、Parkののほほんとした「自然体を貫く力」は、すごい。どんな人が場に来ても、Parkはあまり影響を受けない。揺れない。
いつもなんだか、どことなくのんびりしているように俺には見える。

Parkは俺が大阪のJ.Y.Parkと思うほどに、まぁよく気がつくし仕事は早いし、とにかくデキる人なんだけど、でも実に不思議なことに、一緒にいるときの時間感覚はすごくゆったりしている。

本人がどう思ってるかは分からんけど(まだ尋ねたことない)、俺から見たらいつもにこにこしてて、なんとなくゆったりしてて、なんというかいるだけでホッとしちゃうとこがある。
こういうことも、ある程度の時間と密度を持って一緒にいる、ということをやってみて改めてわかったことかも。

俺とParkに限った話ではなく、人間である俺たちにはそれぞれ、ギフト(贈り物)があるんだと最近わかって来た。それも、1つ2つじゃなくていっぱい。

それは世の中で突出した才能だけを指すんじゃなくて。
なんだか少しだけ人より苦もなくできちゃうこととか、自然に醸し出す魅力だったりとか、なぜだか人から手を借りたいと言われることとか、気づけば自ずとそうなってしまってるようなことだったりする。

俺は敏感というか繊細さがあって、それゆえに場や環境の影響を受けやすいので、Parkの「自然体力」にとても助けられている。
船の錨のようにその場にいてくれる力を頼りにしているし、素敵だなぁと魅力に思うところでもある。

他にも、一旦やってみよーとサクッと踏み出せる「とりあえず力」とか、なんか気づいたら自然と全体のことに気を配ってる「鳥の目力」とか、とにかくギフトが豊かだ。

一方でParkも、俺にとっては自然で自分ではなかなか気づけないギフトを照らしてくれる。それを喜び、愛してくれる

例えば、腹から本音を語って聞いている人に響かせる力とか、
自分の気持ちにつながるスピード感、さらにそれを言語化する力、
言語表現の巧みさ、
起こったことややったことを肯定的に評価して祝い喜ぶ力、
存在感、雰囲気、色気があると言ってくれたりとか。とかとか。

へへ、なんか照れるね。
でも大事な人が言ってくれてることだから、素直に信じたい。

ギフトは時に、「なんで自分はいつもこうなんだ。なんで自分は人とこんなに違うんだ」って、ほとほと嫌になる時もあると思う。

実際、俺は自分の繊細さを長らく憎んできた。
でも、Parkはじめ周りの友人たちが、「その繊細さこそが魅力だし力だ」って、手を替え品を替え教えてくれた。
俺が憎んだ欠点を、ギフトとして眼差し照らし続けてくれたから、俺はこの「感じすぎる力」を大切に思えるようになった。

俺たちは、お互いのことに、違っているから気づけるんだと思う。
違うから憧れて、違うから助けて助けられるんだろう。

照らし合うことで互いを知っていくように創られているんだとしたら、人といっしょにいることは、なお喜びになる気がする。


「違いを豊かさにする道を体現したい」とParkが言った。

うん、と頷く。俺も、そうしたい。

これからも、違ったまま、一緒にいこう。

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