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「大切な人を守れなかった」という痛みの波が来ている

先日、護りたい人を護れる自分になりたいのだ!と書いたわけですが。


来てますよ、痛みの波が。これとか。

もうほんまなんやねんな。まだ前の傷バンバンに生傷なんですけど。1週間も経ってなくないですか。

願いの話をすると、なんか前もさ、こんな感じやったんよ。願いを見つけたら、そっからいっとき波が激しくなる(ように私には見える)の。私を反応させるような出来事やニュースが私の認識範囲に入ってくる。そしてその部分に関する痛みの反応がでかくなる。

上記の件はちょっと生傷が痛くて今すぐには扱えないため、今日は思い出された古傷を扱っておきたい。落ち着いたら署名や自民党への意見送るぜ。

さて。

先日の気づきから、「大切な人を守れなかったなぁ」という残念さ、無念さ、悔しさ、悲しみをじんわりと抱きしめていたら、なんか色々思い出されてきてちょっとびっくりしてる。
記憶たちよ、君らその辺と絡んでたんか!!まじか!!みたいな。

各種関係者の特定を避けるためにとてもぼやかしたりフィクションを混ぜながら書きますが、私にとって深い痛みになった出来事がありました。
その時の置き去りになった痛みを大切に扱うために、書きます。


私は学生の時、とある団体に入りました。もう10年以上前のことで、今はそこがあるのかないのか、どうなっているのか一切分かりませんが。
それは教育関係のところで、子どもたちに関わりたいと望んだ学生たちが広い地域から集まってきて、いろんな企画を学生たちが運営していました。

でもその内部がもう大変だった。
今ならもう何をどう考えても絶対的にアウトだったパワハラセクハラモラハラがもりもりに蔓延してたんですよね。

私は自分が関わった企画がポシャったら、申し込んでくれた子達に申し訳が立たないという一点でひとつの企画を終えて、足早にそこを去りました。
その後も風の噂で、スタッフの大人から学生へのセクハラや暴言は続いていると聞いていました。企画担当が逃亡や失踪したりもしていたらしい。やばい。

リアルタイムだと「あそこヤバかったなぁ」とぼんやり思うくらいだったのですが、日が経って、ハラスメントや暴力にまつわる知識を得るにつれ、当時の異常さに気づいて震え上がった。
そしてその環境の中にいた私の中にも、傷があることに気づいた。

私はここでも、大切な人を守れなかったことで傷ついていた。

当時既に男性的な容貌になりつつあったから、私はセクハラ被害を直接受けた記憶はありません。
でも、一緒に活動していた大事な同期や先輩が、毎日のように目の前で怒鳴り散らされたり、冷ややかに無視されたり、堂々とバカにされたり、肩や腰を触られたり、デートを強要されていることを、止めることが出来なかった。

私自身が止められなかったことへの罪悪感はもちろん、先輩たちも止めなかったこと、むしろ乗っかっていじったりしていたことのショック。そして何より、加害者と同じ立場の、周りの大人スタッフたちが止めなかったことの絶望感が、果てしなかった。さらにそこが教育関係であったことが、グロテスクさに拍車をかけた。


セクハラパワハラがあっても、周りにいる大人が止めない。むしろ大人こそが、そのパワーバランスを利用して加害する。その状況を許容する。

そんな状況なので、こっそり訴えても何も対処も処分も対策もなされなかった。


あのとき本当は、「そういうのやめましょうよ」って止めたかった。
「止められなくてごめん」って仲間に謝りたかった。
「こんなとこ出よう」って連れ出したかった。

大切な人を守りたかった。
大人に守って欲しかったし、大人を信頼したかった。
環境は変えられるのだと思いたかった。

ごめん、って、ずっと思ってた。
なんで、って、ずっと怒ってた。

セクシュアリティのことだけじゃなくて、私は人生のいろんな部分で、『大切な人が傷つくのをそばで見ているだけしか出来ない』という経験をしてきたようだ。


もういやだ。もうたくさんだ。

もうそんなもの、いらない。


人生に問われてきたのかもしれない。
大切な人が苦しむのを見ているだけで本当にいいのか。

あなたが、守りなさい。
あなたが、人が、組織が、社会が、暴力に別れを告げて平和を築く助けをしなさい。

そうやって人生に語りかけられてきたのかもしれない。

私は、大切な人に手を差し伸べられる人になりたい。
大切な人が誰も傷つけられない世界をつくりたい。


日に日に、願いが深まっていく。

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