見出し画像

言葉と愛をめぐる俺の徒然思考

久々に自分的大事件が起こった。
そしてそれを巡って、昨日からぐるぐるが止まらないでいる。

こういう時は文で書くのが一番自分に優しいので、いっちょチャレンジします。

* * * * * *

ある友人から、いろんな経緯があって、グループラインで「大っ嫌い!!!」と言われた。俺個人に対してではなく、グループの皆に対して。

俺はそれに対して、最近では稀に見るほどに物凄く防衛的になってめちゃくちゃ反応した。
他の友人は、「あいつったら嫌いなんて言って。好きなくせにばかだな〜」って苦笑してる友人もいる一方で、俺は真剣に傷つき、腹を立て、悲しみ、恐れ、怒った。

とりあえずその後はなんやかんやと落ち着いたのだが、振り返って、あれは一体俺に何が起こってたんやろうって思い返している。

どう考えても、俺が超反応したんよね。
うまくクリアに出来るか分からんけど、ちょっと考えてみたい。

あんなに激昂するってことは、俺にとってとんでもなく大事なものに触れたってことだ。
それがすごく知りたい。

* * * * * *

思い返すと、一番に思ったのは、

「好きなら嫌いなんて言うな!!!!!」

ってことだった。
なんでそれであんなに怒ったんだろう。

なぜ?と自分に問うと、こんな答えが返ってきた。

『だって、いつ会えなくなるかなんて分からないんだから。
もしどちらかに何かあって、最後に聞いた言葉が「嫌い」だったとしたら、残った側がどれだけ痛むと思ってる。
ムカつくも痛いも悲しいも辛いも腹立つも怖いもショックも大丈夫。それはほんとうだから、聞ける。

でも、嫌いはだめだ。それは嘘やんか。

嫌いなやつからの嫌いはいいけど、好きな人からの嫌いは、それは本当にだめだ。』

だそうだ。

俺は、過去に友人を5人亡くしている。
その度に一番辛かったのが、
「もっと好きだって、大切だって言えば良かった」
ってことだった。

これは俺にとってかなり根本的な価値観で、

『好きな人には言える限りちゃんと好きと言う』

は、めちゃくちゃ大切にしてることだ。
俺にとってそれは、命を、存在を大切にする態度だから。

そこに触れたからブチギレたんだなと思う。


あと、その後のやりとりで、

「何を言っていたとしても、愛していることを知っていてほしい。たとえ嫌いと言っても、何があったってhiRoは愛されていると知ってほしい。」

という話があり、一定受け入れたけどなんかどこかがモヤモヤして、どうにもしっくりこなかった。

うーんうーんと半日くらい考えた末に、一つ辿り着いたのが、こちら。

『「何を言っても愛している」こともわかるが、俺には「何を言っているか」もとても大事』

これ、かなりしっくりきた。
言葉も疎かにしないでほしいんだ。

そんなに丁寧にできるかって言われたけど、それでも丁寧にしてほしい。できる範囲でいいから。だってそれが俺はすごく大事で、俺に愛を示す形になるから。
俺を大事に思うなら、出来るだけ伝える言葉や表現も大事にしてほしいって言いたいんだ。

俺は、言葉をかなり大切に思っている。丁寧に使いたいと思っている。こんな風に日々noteを書くくらいだからね。笑
大切に思ってるからなのか、言われた言葉は結構記憶していたりする。しかし残念ながらそれは辛い言葉も含まれていて、もう15年も20年も前に言われた言葉も覚えていてしまっていたりする。
だから、不用意に言葉を発されるのはすごく怖い。いつまでも残ってしまうから。

そして親しき中にも礼儀ありというタイプなので、親しい人ほど丁寧に接したい、きちんと説明したい、そういう形で愛を表現したいし受け取りたい、と願っている。

そんな俺にとっては、「何を言っていても本当は愛している」は、受け取り難い。
そして俺のこんな感覚は、「親しいからこそどんな感情も表現できる」というタイプの人とは、うまく噛み合わない。

今回でいうと、相手は「どんな表現もできることが安心の証」らしいのだが、俺としては生の感情がそのまま飛び交う場所で安心は感じづらい。
「自分も我慢しないけど、伝え方は工夫されていて、お互いの願いがどうしたら叶うか落とし所を話し合って考えられる」というやりとりができると安心を感じられる。

でも、こういうやりとりをするのは、言語コミュニケーションが苦手な人からしたら想像を絶する困難だとも思う。
俺は言語が得意だし大切だから言葉を望むけど、感情や感覚や身体表現でコミュニケーションする民からしたら、これは多分すごくハードルが高いんだろう。
もうこれは、言語の民と感覚の民という部族の違いとしか思えないから、仕方ない部分だとも思う。

俺だって、感情や身体でやりとりしてくれって言われたら多分かなり困ってしまうから、これはあくまで俺のリクエストとして明かすことしかできないな、とも思っている。

ここまで考えてみて、たとえばパートナーくらい共に人生を生きたいという人には、俺は「言葉を丁寧に扱い、相互理解に関心が深く、話し合いを重視する」人を望んでるのかもなって思った。
言語に対する感覚とか、愛情表現の方法が近い人、かな。

パートナーシップには安心と末永い継続を求めていて、そして俺の安心と継続には言語コミュニケーションが不可欠。
友達でこれなんだから、パートナーが感情や身体感覚の民なら身が保たない気がする。そっち寄りだけど言語もいける、くらいの人なら大丈夫そうだけど、完全にどっぷり感覚の民なら多分きつい。
友達はどんな人でもいいんやけどね。

ふー。
ここまで考えてみてかなり落ち着いてきた。
と同時に、自己理解がだいぶ進んだ気がする。
特にパートナーに望むものを明確に出来たのは快挙だ!!ありがとう友人!!!

色々書いたけど、俺は今回嫌いって言われた子のこと大好きなんだよね。そしてその子も、間違いなく俺のこと大好きなの。
でも、こんなに大好きなのに、表現の部分で圧倒的に噛み合わないことに関して深く嘆き、不安になってたってことがようやくわかった。
自己共感を経て、またその子への『大好き!』を握り直せそうで、すごくホッとしている。

これからもこうして、自己共感や自己理解を深めながら、違う人ともそれぞれの距離で一緒にいられるようになりたい。

違いは、好きな人から離れる理由にはならないから。

大変だけど、頑張る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?