「100年の夢と魔法のその先へ - 『ウィッシュ』評論」

 筆者はディズニーというコンテンツに洗脳されている。ディズニー狂だった両親のもとに生まれた手前、生後数か月のころからパーク内を連れ回され、実家や祖父母の家にはディズニー作品のVHS やDVD が揃えられ、「アンパンマン」や「しまじろう」といった幼児向け作品の代わりに、ディズニー作品を観て幼少期を過ごした。幼稚園や小学校を早退してパークへ行くなんてこともざらにあった。昨今のパークのセレブレーションイベントでは考えられない、1年間で4回の月替わりイベントが存在していた東京ディズニーランド開園15周年「ビバ!マジック」におけるハードスケジュールを、幼いながらに両親に連れられて年パスペースではるばる浦安まで通ったのも、今考え直してみればかなり根気のいることだっただろう。親元を離れた現在も、定期的にパークへ通ったり、作品を観に劇場へ行ったりしていることから、著者の人生の四半世紀以上を振り返ると、常にディズニーコンテンツがそばにあった(ある)と言える。

 本作『ウィッシュ』(2023)は、ウォルト・ディズニー・スタジオ創立100周年を記念して製作された、新作長編アニメーション作品である。100周年記念作品ということで、作品への前評判や反響は大きいものであった。宣伝では100周年記念という謳い文句が強調され、歴代キャラクターがフィーチャーされたティーザーが流された。『ウィッシュ』というタイトルそのままに、夜空に輝く星々に願いをかけるかのように見つめる少女の姿が描かれたキービジュアルには、ディズニーの数多の作品を彩ってきた歴代のディズニー・プリンセスを彷彿とさせられ、胸躍らせたファンもいただろう。しかし、結論から申し上げると、本国アメリカでの封切り時点での評価は、前評判の盛り上がりに比べるとあまり高くない。興行収入や観客動員数も、ウォルト・ディズニー・アニメーション作品としては低迷の続いている、コロナ期の作品群とさほど変わらないことからも、ディズニーがこれから進む道のりは、決して見通しのいい平坦な一本道とは言えないだろう。しかしながら本作には、ディズニーが歩んできた100年のこれまでを振り返り、盛大にお祝いしつつも、この先のディズニー神話に託す「願い」が感じられた。単に作品そのものの出来栄えという視点からだけではなく、「ディズニーのこれまでとこれから」という大きな枠に組み込むことで、本作が提示した可能性について考察していきたい。

【以下ネタバレを含む】

 はじめに気になった点から簡潔にまとめておきたい。まず、脚本は決して傑作と呼べるものではなかっただろう。本作で脚本を担当したのは、『アナと雪の女王』(2013)などでの監督 / 脚本業でその名を知らしめた、ジェニファー・リーだ。彼女のオリジナルストーリーに基づいた脚本は、ディズニー作品のイマジネーションの根底にある「願い」や「夢」をテーマに、100周年作品の意義が感じられる世界観を精巧に練り上げている。しかしながら、「どこにでもいる少女が魔法と出会い、悪に打ち勝って自分自身の価値を見出す」という、あまりに典型的なディズニーのサクセスストーリーを踏襲しているのがネックとなり、「既定路線」と「魅力的なテーマ」の間をどっちつかずに行ったり来たりすることとなり、上手く機能していなかった印象だ。18歳になると願いをマグニフィコ王に託し(奪われ)、管理されるようになるという興味深い設定は、ロサス王国を「夢に満ち溢れた子どもの世界」と「夢を失った大人の世界」に分断することができ、それを主軸にストーリーを展開することもできたのだが、本編に絡んでこなかったのも残念だった。また、メインキャラクターたちのバックグラウンドの不在、これは大きな問題点だろう。主人公アーシャは最終的に夢叶って魔法使いとなるが、肝心の彼女の願いに対する強い想いや作中での葛藤は特に描かれることはなかった。劇中における彼女の行動理念は、祖父にあたるサビーノをはじめ、ロサス王国の国民全員の「願い」をマグニフィコ王の手から解放させ、叶えようとする「自己犠牲」の精神から来ている。しかし、この万人に対する無償の自己犠牲精神が、彼女自身の「願い」についての強い思いを空虚なものとし、結果的に主人公にしては魅力に欠けるキャラクターとなってしまった。サビーノについても同様に、彼の「願い」に対する背景や想いが直接語られることがない(大半の国民は、自分の「願い」が一体なんなのか、願いの玉を見るまで知らない)。加えて、スターと出会ってから最終局面に移り変わるまでの中盤部分の中だるみも、作品の淡白さを加速させていた。結果、素晴らしい世界観と中途半端な脚本という両極端のミスマッチのせいで、観客は物語やキャラクターへ完全に感情移入することができず、どっちつかずの世界の中を95分間右往左往させられることになるのである。
 次に、本作の評価できる点について。なんといっても本作の肩書通り、過去作品からのオマージュや引用が数多く感じられる、100周年を意識した「記念碑」的な作品となっていることは、最初に特筆すべき点だろう。ディズニーの歴史を築き上げてきた往年の作品の残り香が感じられるそれらの雰囲気に、懐かしさを覚えた人もいるに違いない。劇場で数回観ただけではすべてを確認したとは言えないが、気づいただけでもここに羅列しておきたい。

〇: アーシャの7人の友達(それぞれのアイデンティティも合致している)→ 七人のこびとたち(『白雪姫』)
〇: マグニフィコ王の「鏡よ鏡」のくだり→ ウィックド・クイーン(『白雪姫』)
〇: エンドロール前エンディングで閉じられる本の演出→ 初期ディズニー・プリンセス3作品
〇: エンドロール後に「星に願いを」をマンドリンで弾き語りするサビーノ→ 『ピノキオ』
〇: 魔法使いであるマグニフィコ王と、見習いであるアーシャの関係性→ 『ファンタジア』内の「魔法使いと弟子」
〇: 「フェアリー・ゴッドマザー」の言及→フェアリー・ゴッドマザー(『シンデレラ』)
○: マグニフィコ王の魔法で出現したピンクのドレス、リボン、ハサミの演出→ 『シンデレラ』
〇: 願いの玉に映るピーター・パンの姿、少女の願いを叶えるべく現れたピーターという名前の少年→『ピーター・パン』
〇: 空を飛ぶことを夢見る少女(水色の衣服はウェンディの姿を彷彿とさせる)
〇: スターの光り輝く粉→ティンカー・ベル(『ピーター・パン』)
〇: 願いの玉を自身の力に取り込む際のマグニフィコ王によるメリー・ポピンズの言及 (吹き替えでは意訳となっている)→ 『メリー・ポピンズ』
〇: ジョンという名前の熊→ リトル・ジョン (『ロビン・フット』)
〇: バンビという名前の鹿→ 『バンビ』
〇: スターの粉の力でしゃべるようになる動物たち→ 『バンビ』
〇: 同上の理由でしゃべるようになる花々やきのこ→ 『ふしぎの国のアリス』(「ゴールデン・アフタヌーン」歌唱シーン)
〇: 城の倉庫内でのニワトリたちのミュージカル→ 『美女と野獣』(「ひとりぼっちの晩餐会」歌唱シーン)
〇: マグニフィコ王の陰謀が明らかになるシーンで登場する国民を模したフィギュア
→ スノーギース (『アナと雪の女王 / エルサのサプライズ』)

加えて、若干のこじつけがましさはあるが、マンドリン弾きであるアーシャの祖父サビーノが、ストーリーの終幕を「星に願いを」の弾き語りで締めるシーンには、今年で公開50周年を迎えた『ロビン・フット』(1973)に登場するアラデナールの面影がどことなく醸し出され、ささやかながらも作品公開50周年を祝うような粋な演出にも感じられた。裏付ける根拠として、同時上映された『ワンス・アポン・ア・スタジオ - 100年の思い出』に、同じくギターを手に「星に願いを」を歌うアラデナールの姿が、大々的にフィーチャーされていることも忘れてはならない。また、本作の「願い」という明確なテーマに関連して、星に願いをかけることで夢を叶えた『ピノキオ』(1940)、右から2番目の星にネバー・ランドがあるという設定を持つ『ピーター・パン』(1953)からの引用が印象に残ったことは好意的に捉えたい(『ピーター・パン』からの引用が特に多かった点も、公開70周年記念の意味合いが強いだろう)。過去作品の雰囲気を隠喩的に提示しながら、時には歴代のキャラクターたちを登場させて作品を成立させるという手法は、本年公開作で言えば、宮崎駿の最後の長編アニメーション作品になったであろう『君たちはどう生きるか』(2023)や、シリーズ20周年記念作品『映画プリキュア・オールスターズF』(2023)といった作品でも見られた。このような手法は、長年作品を追い続けてきたファンに対してのディズニーからの感謝状として観客に提示されたと言える。それでいて、直接的なキャラクターの登場こそ避けられているものの、ストーリー全体の流れを損なわないように各々が巧みに挿入されていること、ディズニーの醍醐味であるエンターテイメント性やコメディ要素が欠けることなく上手くミュージカル映画として機能している点は、100年の歴史を紡いだディズニーにこそ成せる業だろう。良くも悪くも、古参ファンに依存した内輪ノリ的な感覚があることは否めないが、本作がまず大前提に達成しなければならなかった、「ディズニー100周年の記念碑となる作品を作る」という目的は、これらの隠喩と引用によって達成され、がっちりとファンの心を掴んだに違いない。

 以上の批評ポイントを踏まえて、この作品に秘められた可能性について模索したい。最初に、「ディズニーのこれまで」という観点から考察する。ディズニーというブランドを耳にして、ミッキー・マウスを例外に多くの人が最初に思い浮かべるのは、白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫などをはじめとする、慎ましく品行方正なディズニー・プリンセスの姿だろう。事実、『白雪姫』(1937)は世界で初めての長編カラーアニメーション映画として、ディズニーの名を世界に轟かせ、第二次世界大戦終戦後最初の長編アニメ『シンデレラ』(1950)の成功で、ディズニーは最初の黄金期を迎える。ウォルトの死後、長く続いた低迷期からスタジオを救ったのも、『リトル・マーメイド』(1989)、『美女と野獣』(1991)、『アラジン』(1992)などからなるディズニー・ルネサンス期の作品群であるし、『塔の上のラプンツェル』(2010)は2度目の低迷期からの脱却のみならず、ディズニーの将来を決定付ける重要な転換作となった。言わずもがな「アナと雪の女王シリーズ」は、ディズニー史上最高の興行収入を叩き上げ、数々の栄光に輝いた。このように、ディズニー・プリンセスはディズニーにおける重要な時期にその姿を現し、見事にスタジオを成功の道へと導いてきた功績がある。
 しかし、同時にそれは、基本的な社会の枠組みとして色濃く残されてきた、家父長制度を中心に回る男性優位の物語でもあった。周知の通り、ディズニー・プリンセスの物語は、中世ヨーロッパのグリム童話のお伽話、民話から着想を得ている。本来、オリジナルの時点ではこれらのお伽話は、ドイツの民間レベルで親しまれてきた、消えつつある伝承文化を記録しておくためのものだったされる。しかし、それが商業目的で利用される度に、物語には手を加えられ、各国で訳される度に、自国の価値観に沿って物語が作り変えられてきた歴史がある。グリム童話は今や70ヵ国語以上で翻訳されているが、どの国の翻訳版でも変更されることのない、唯一普遍的主題というのが、「女の子は美しく従順であれば、地位と金のある男性に愛されて結婚し、幸福になれる」(若桑 2003) というプリンセス・ストーリーの基本原則である。ダウリングは、著書『シンデレラ・コンプレックス - 自立にとまどう女の告白』(1982) にて、童話経験が女児へ無意識的に「刷り込まれる」プロセスを、「シンデレラ・コンプレックス」という造語を使って説明している。彼女によると、男の子が自立した「強い」存在として教育を受けるのに対して、女の子はかわいらしく弱い存在であるように教育され、世の中に出て仕事をすることは男性化だとタブー視されるので家庭に執着する。1人では無力で生活手段に乏しいため、いつか運命の人が現れて、結婚によってそれらが解消されることをひたすら待ち続ける。こういった一連のプロセスを、幼少期の童話経験によって無意識的に「刷り込まれる」ため、他者への依存、無力であることの自覚を引きずり、他者によって守られていたいという心理的依存状態に陥る、という具合である。彼女の考察を踏まえて、若桑はプリンセス・ストーリーが伝える本質的なメッセージを、以下のように定義している。

1、家事労働と女性の不可分の結合
2、他律的な女性の人生設計 - 理想の男性を持ち、これと結婚し、その地位財産を自分のものにすること。これが女性の「幸福」であるという信念。
3、性的魅力が幸福の必須条件であること。
(若桑 2005)

 ディズニーで描かれたプリンセスたちのキャラクター性に注目してみよう。白雪姫は色白で慎ましく、お淑やかという理想的な美少女像を踏襲している。彼女は7人の小人の家に住まわせてもらうために、掃除、洗濯、炊事に従事し、小人たちを労働へ送り出す母親的な役割を担う。強く願いさえすれば、いつか王子様が迎えに来てくれると信じて、最終的に自分を死の呪いから解いてくれた王子との結婚を以ってその願いを叶える。シンデレラは継母と義姉の身の回りの世話や家事一切を強いられている。苦境に耐えながらも、自室の窓から姿を覗かせる、お城での生活を恋焦がれる。そして、ガラスの靴を携えた王子が現れ、2人の結婚式のシーンで物語は終幕する。『眠れる森の美女』(1959)のオーロラ姫もシンデレラと同じく、透き通った白い肌と、綺麗なブロンドの髪という、白人文化の文脈の中で理想とされるアングロサクソンの容姿を持つ。森でたまたま出会ったフィリップ王子と恋に落ちるが、恋が叶わないことを嘆いてマレフィセントに騙され、100年の眠りについてしまう。最終的にこれを解決するのは、フィリップ王子のキスと2人の結婚である。
 このように、ディズニー・プリンセス神話(特に第一次黄金期)で描かれる女性像の3つの主題には、男性(プリンス)の存在が必要不可欠となる。家から出ず家事や育児に勤しみ、慎ましく夫の帰りを待つ女性は、男性の生産力(労働)と女性の再生産力(育児、家事)とを分業化させたい男性側の願望と合致していたし、結婚という女性側が掲げる幸福の到達目標は、自分を救い出してくれる男性という相手がいてこそ成立する。そして、性的な魅力の条件、それは紛れもなく男性の性的な視線と傲慢な態度を通して生成される、理想的な女性像のことである。我々は童話の現象をアニメーションというフィルターを通して、あたかもすべての女性にとっての夢のような素晴らしい出来事であるかのように教え込まれてきたが、その実態は男性優位の社会構造が作り出した、虚構の幻想だったのである。
 それは、ディズニー・ルネサンス期に作られた、ディズニー・プリンセス作品でも変わることはなかった。たとえ『リトル・マーメイド』(1989)のアリエルが、海という自分の住む世界から陸の世界へ飛び出そうとも、『美女と野獣』(1991)のベルが、男性さながら雄々しく馬に乗り、野獣との交流を経て人間の心を取り戻させようとも、『アラジン』(1992)のジャスミンが、制限された王宮を抜け出して、城の外にある自由な生活を渇望しようとも、彼女たちの物語の行き着く終着点は「結婚」である。後年の作品では、いくらか女性の自主性というものは見直されたものの、根本的な構造は何も変わらなかった。主人公2人が離れ離れになるという異色のエンディングを迎える『ポカホンタス』(1995)で、ポカホンタスが選んだイングランドへ行かずに植民地に残るという選択は、ホモソーシャルなグループへの帰属意識から生まれ、彼女の属するポウハタン族には、文明社会以上に厳しい家父長制度が存在する。『ムーラン』(1998)では、高齢な父親に成り替わり男装することで兵役を受けようとする少女ムーランを、「新しい女性像」として世間は好意的に受け止めたが、彼女の忠誠と自己犠牲に裏付けられるのは、家父長制の絶対的存在である父親である。そして、彼女も例に漏れずシャン隊長との恋愛にうつつを抜かす。また、戦場というマッチョイズムがうごめく巣窟で、男装した女性が活躍するというシチュエーションには、斎藤美奈子の言葉を借りて言えば、女の子が「男の子の国」に参戦するには、『リボンの騎士』(1967-68)のサファイアように男装(女性性の隠蔽)することが必須なのであり、男性との共生のために男性性の強調を行うというのは、極めて男性主体の行為である。(斎藤 1998) 『プリンセスと魔法のキス』(2009)では、主人公ティアナは外での労働に従事し、賃金を稼ぎ、自分自身の力で夢を叶えようとする女性として描かれている。本作品の製作総指揮を務めたジョン・ラセターによると、「ティアナの夢はあくまで自分のレストランを持つことであって、プリンスと結婚することを望んでいるわけではない」のだという。(https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/16/AR2009041603139.html) たしかに、彼女は偶然にもカエルの姿に変えられてしまったナヴィーン王子と出会い、あくまで助力する過程の中で彼への恋心が芽生えたに過ぎない。しかし、ティアナはカエルから人の姿に戻った王子と結婚することで、最終的に自分のレストランを持つ夢を叶える。それまでの彼女の努力や夢を叶えるためのプロセスがどうであるにせよ、この作品に込められたメッセージは、「ひたむきに夢に向かって努力さえしていれば、いつかそれに気づいてくれる誰かが現れて、幸せな結婚と未来が待っている。」ということでまとまってしまう。これらの流れは、遂に『モアナと伝説の海』(2016) に至るまで変容することはなく、ディズニー・プリンセスにおける不変の文化として脈々と引き継がれてきた(ディズニーの古典的概念を払拭したとされる『アナと雪の女王』でさえも、続編でエルサに代わって王位を継承したアナとクリストフは結婚する)。

 ここで、もう一度『ウィッシュ』に立ち返ることで、この作品が提示する「ディズニーのこれから」の行方が見えてくるのだが、本論に進む前に、ここで使用する単語としてのディズニー・プリンセスの意味を定義しておこう。

1、『白雪姫』から『ラーヤと竜の王国』(2021)までの作品群にて、米ディズニー公式サイト(https://princess.disney.com/Disney Princess 2024.1.20 閲覧不可)において紹介されていたキャラクターは、従来通りディズニー・プリンセスとして扱う。
2、『メリダとおそろしの森』(2012)の主人公メリダは、公式サイトでディズニー・プリンセスとして紹介されていたが、厳密にはディズニー・ピクサーが製作した作品で登場するディズニー・プリンセスにあたるため、本論では考慮しない。
3、「アナと雪の女王シリーズ」に登場するアナとエルサは、公式サイトでディズニー・プリンセスとして紹介されていなかったが、本論ではディズニー・プリンセスとして扱う。
4、アーシャは王族の出ではないため、ディズニー・プリンセスに分類されないが、本論ではディズニー・プリンセスと同じ枠組みで扱う。
5、ディズニー・プリンセスという単語を、王族の末裔の女性という意味ではなく、ヒロインという広義の意味として使用する。
6、かつてディズニー社に存在したOVA 作品やTV 向け作品の専門スタジオである、ディズニートゥーン・スタジオで製作された続編作品については考慮しない。
7、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズにて後年リメイクされた実写映画については考慮しない。

以上の定義に基づいて、次章を論じていくものとする。

 まず、本作で描かれるアーシャの活動の全ては、「家」という場所の外の世界で起こる出来事である。冒頭で、彼女が母親のサキーナに対して「ケーキを焼くのは不得意。」と言及するシーンは、家事からの逃避を表している。これは白雪姫がアップルパイを焼けることをこびとたちにアピールすることで、自分自身の女性としての価値観をアピールしていたシーンのアンチテーゼとも捉えられる。次に、彼女が魔法使い見習いとしてマグニフィコ王のもとで求職活動をしているのは、社会的に自立した1人の女性としてのキャラクター像を表現している。これらは、これまでのディズニー・プリンセスが提示していた、「家事に勤しむ女性」というイメージを逸脱させ、家の外で特定の仕事に就くことは、一切の関心ごとを外の世界での事象へと向けさせる。これらは、アーシャの女性としての性質をより活発なものにし、家庭の中に閉じ込めて永久に所有しようとする男性からの支配を否定する。彼女は最終的に夢叶って魔法使いとなるが、願いの自己実現は彼女自身の選択、行動に起因するものであり、前世紀のように「いつか王子様が迎えに来てくれる」、「努力すればいつか誰かが自分の存在に気づいてくれる」という他力本願な受動性は存在しない。また、先代のディズニー・プリンセスの多くが結婚という形を取って、彼女たち自身の幸福の実現を表現されてきたが、彼女たちのその先の物語は語られることはない。「結婚」の先には、複雑な日常の生活、パートナーとの関係、子どもを授かれば育児などの困難な課題が待ち受けているはずである。これまでのディズニー作品は、それをあたかも「結婚」という行為自体が、女性を幸せへと導く頂点であるかのようにオーディエンスへ提示し、その先の物語へそっと蓋を閉じて遮断してきた。対してアーシャの最終到達地は、願いの自己実現である。自律的な人生設計と願いの自己実現によって得られる幸福感は、将来の選択肢と可能性に富んでいる。最終的に願いの達成は、スターの魔法によって叶えられるが、それはまぎれもなくアーシャ本人の行動に起因している。そして、彼女の持つ黒い髪、ドレッドロックス、黒い肌。これらの外見的特徴は、先代が提示してきた、ディズニー・プリンセスのルックスにおけるステレオタイプ(純真無垢な白い肌と長く伸びたブロンドの髪)とは真逆をいく。先述したように、部族出身のポカホンタスとモアナ、アフリカ系のティアナ、アジア系のジャスミン、ムーラン、ラーヤなど、アングロサクソン的美少女像とは一線を画すキャラクターは、アーシャ以前にも見られた。だが、本作の舞台であるロサス王国は、劇中にて地中海のどこかにある国だという明確な言及がされており、ヨーロッパ周辺地域出身のキャラクター(捉え方としてはアフリカ、または中東地域とも考えられるが)としては、アーシャのようなルックスの採用は初めての試みだったのではないだろうか。
 さらに、アーシャのファッションに注目すると興味深いことがわかる。彼女の装いは、コルセットで胴まわりを窮屈にした洗練されたドレスというよりは、むしろワンピースに近く、身体の線が誇張されることなくゆったりとしている。足元を見てみると、履いているのはハイヒールではなく、ローヒールのパンプスである。過去にも、ローヒールや素足を選択したプリンセスは存在したが、これらの変化は衣服の点では革新的だと言える(戦闘服としての男装を選んだムーランとラーヤ、民族衣装を着用したポカホンタスとモアナを除く) 。シンデレラの原作にはこんなシーンがある。ガラスの靴の持ち主を探しに来た王子に選ばれようと、シンデレラの義姉は躍起になり、ついには無理やりガラスの靴が入るように自身の大きな足の一部を切断してしまうのだ。このシーンはグロテスクなシーン故に、アニメ化に伴って省略はされているとはいえ、女性が意中の男性に選ばれるためならば、身体の一部を切り取り、変形させることさえも厭わないという決意の表れでもある。身体を締め上げるコルセット、重いクリノリン、きついスカートや歩きづらいハイヒールに至るまで、ディズニー・プリンセスの身体は男性側からの理想を押し付けられるように抑圧され続けてきた。反対にアーシャは、自らの身体を従来通りのプリンセスチックなドレスではなく、民族由来のゆったりとしたワンピースの中に委ねる。主体にも客体にも成り得るプロポーションの封印は、時に誇張と強調以上に明確な、「女性の強さ」というコードが込められる。スカートの内部はパニエで拡大されることはなく、筒部分は明らかに歩きづらそうな窮屈さから逃避し、外の世界で働き、選択する女性として、日常生活での機能性と自然な風合いが生かされた。
 もう一つ本編で描かれた重要な主題は、アーシャの本編における目的が、自分の願いを叶えることではなく、祖父サビーノの願いを叶えること、ひいてはマグニフィコ王の私利私欲で奪われた、国中の願いの玉を取り戻すことにあるということだ。これは、ディズニー・プリンセスがこれまで運命づけられてきたプリンセス・ストーリーとは相反する。先述の通り、ディズニー・プリンセスの多くは他力本願に願いや夢にすがり、男性の出現と結婚によってその願望を達成させてきた。家事に従事することで従順で慎ましい女性像を演じ、プリンスにとっての理想的な外見を保ちながら来るべきその日に備える。その一連のプロセスを構成するすべての事象は、受動的に機能していると言える。対してアーシャの場合、彼女の祖父の願いを実現させたいという願望は、マグニフィコ王の隠された悪事に気づくことで、国民全体の願いを取り戻すことへと昇華し、それらを実現するために仲間とともに奮闘する。彼女自身の能動的な行動と選択の結果、願いの玉は国民のもとに返され、その努力の賜物としてアーシャ自身の願いは王妃によって叶えられる。もちろん、このようなキャラクターのアイデンティティとデザインの変化は、すべてが本作で初めて描かれた事例というわけではない。本作が試みたディズニー・プリンセス神話の解体というのは、『アナと雪の女王』に端を発して、『モアナと伝説の海』、『ラーヤと龍の王国』と順を追って実践されてきた成果なのである。
 ここまでディズニー・プリンセスの描かれ方をやや否定的に捉え、その本質的な構造を明らかにしようとしてきた。だが、『ウィッシュ』が提示した女性像と対立する極にあるディズニー・プリンセスの存在は、真にスタジオを支えてきた「ディズニーのこれまで」であり、これらを完全に否定することはできない。100年の歴史が紡いできた「ディズニーのこれまで」という物語を受容しながらも、それらに抗い、解体しようとすることで、新たなるヒーロー像を確立しようとした本作での挑戦こそが、二極のもう片方にある『ウィッシュ』に込められた「ディズニーのこれから」という可能性なのだ。

 前文で引用したように、ディズニー・プリンセスというカテゴリーは、米ディズニー公式サイト内のページで紹介されているキャラクターに対して用いられる呼称である。しかし、2024年1月20日現在、サイトのURL を踏んでもページを開くことはできず、削除されている可能性が高い。これは、ディズニー社がプリンセスという絶対的な存在を、100周年を機にもう一度見直し、新しいヒーローとしての女性像を模索しているとも捉えられるだろう。いわばプリンセスに代わる新しいヒーローの確立というのは、ディズニー社にとって急務なのであり、ディズニー・アニメーション作品は現在、佳境に立たされている。これは、同じフランチャイズ作品である、「スターウォーズ・シリーズ」に立ちはだかるジョージ・ルーカス原作のオリジナル・トリロジーという障壁、「マーベル・シリーズ」における、キャプテン・アメリカとアイアンマンの不在についても同じことが言えるだろう。ディズニーCEO のボブ・アイガーは、近年のディズニー作品がポリコレに偏りすぎており、エンターテイメント性を欠いた作品の連発が、直近の興行収入が振るわない原因だという趣旨の発言を残している。(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2312/10/news081.html)たしかに、近年のディズニー作品は、『リトル・マーメイド』(2023) にて、本来赤毛に白い肌を持つキャラクターだった主人公アリエル役に、非白人でドレッドロックスのハリー・ベイリーが起用されていたり、『ストレンジ・ワールド / もうひとつの世界』(2022)では、カミングアウトした1組のゲイカップルが登場したり、多種多様なアイデンティティに配慮した作品が目立った。今後、近年の路線通り多様性に富んだ作品を作り続けていくのか、アイガーの発言通り路線回帰して、エンターテイメント性を追求した作品に再度舵を切っていくのかの見通しは現時点では不透明だ。しかし、どちらの路線に進んだとしても、ディズニーが『ウィッシュ』までに込めてきた「願い」は、未来のディズニー作品で語られる物語や、登場するキャラクターへも間違いなく生かされ、課題とされる新しいヒーロー像を確立するための挑戦を「あきらめることはない」だろう。


(2023年12月23日作成・2024年1月20日、31日加筆)






参考文献

カーター, アンジェラ 富士川義之 他訳『シンデレラあるいは母親の霊魂』 (筑摩書房 2000)
北九州市立男女共同参画センター”ムーブ” 編
『ジェンダー白書3 女性とメディア』(明石書店 2005)
コルベンシュラーグ, マドンナ 野口哲子 他訳 『眠れる森の美女にさよならのキスを メルヘンと女性の社会神話』 (柏書房 1996)
斎藤美奈子 『紅一点論 - アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 (ちくま文庫 1998)
佐藤紀子 『[新版]白雪姫コンプレックス』 (金子書房 1995)
ダウリング, コレット 木村治美 訳『シンデレラ・コンプレックス - 自立にとまどう女の告白』(三笠書房 1982)
本橋哲也 『ディズニー・プリンセスのゆくえ 白雪姫からマレフィセントまで』(ナカニシヤ出版 2016)
若桑みどり 『お姫様とジェンダー - アニメで学ぶ男と女のジェンダー入門』(ちくま新書 2003)

https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/16/AR2009041603139.html (2024.1.20 閲覧)
https://princess.disney.com/Disney Princess (2024.1.20 閲覧不可)
(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2312/10/news081.html (2024.1.20 閲覧)

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