【観劇メモ】文楽・生写朝顔話

2021年8月2日、国立文楽劇場で「生写朝顔話」を観る。7月16日の初日にも観ているので2回目の観劇となる。本日は千秋楽前日。月曜日で非常に暑いということもあり後ろの方の席は客がまばらだった。座席は5列目真ん中やや上手寄り。人形が見やすいポジションだが字幕を見るには少々目線の移動が必要。文楽劇場はこのくらいの列の座席がやや沈み込んでいて前の席の人が大柄だと舞台が見えにくいことがある。幸い今回、前の席のおじさんは背もたれに寄りかかってほとんど寝ているみたいな姿勢だったので問題ない(このおじさんが後のチャリ場になると同じ姿勢でよく笑うのだった)。

明石浦舟別れの段

物語は中国地方(現在の山口県周辺)を治める大内家の家臣宮城阿曾次郎と秋月家の娘深雪との恋を主軸として展開する。二人は最初、宇治川の蛍狩りでたまたま出会い恋に落ちる。この「蛍狩の段」は船上で若い二人が恋に落ちるというロマンティックな場面であるが、時間の都合で上演されず、残念。今回は「明石浦舟別れの段」から始まる。父親から主君を諫めるという大事な命を受けて先を急ぐ阿曾次郎だったが、月夜の晩明石浦で風待ちをしている向かいの船から「露のひぬ間の朝顔に、照らす日かげのつれなきに…」と、蛍狩りの際に阿曾次郎が深雪に与えた歌が聞こえてくる。船には深雪が乗っており二人は再会する。深雪はぜひ自分を連れて行ってくれと懇願する。こんな偶然に会えたということは縁があるということ、今は連れて行けないがきっとまた会えるという阿曾次郎。それは当座の言い逃れ、自分のことが気に入らないなら正直に言ってと返す深雪。ついにはここから海へ身を投げると言い出す。阿曾次郎は根負けし、夫婦になって深雪を連れていくという。「不義いたずらと世の人口、謗らば謗れ連れていく」(世間にどう思われようとかまわない)と言ってのける阿曾次郎がかっこいい。しかしすぐ後、両親に置き手紙を書くため深雪がいったん元の船に戻った瞬間、風が吹き出して船は出発してしまう。二人は再び別れ別れに。

深雪を演じるのは桐竹勘十郎。この段における深雪は華やかで情熱的なお姫様といった感じで、それがよく表現されている。遠ざかろうとする船上から深雪は「朝顔」の歌が書かれた扇を阿曾次郎の船に向かって投げる。1回目に観劇したときは途中で落っこちてしまい介錯の黒衣が拾って阿曾次郎に持たせていたように思ったが、今回は上手くいって吉田和生さん演じる阿曾次郎がパッと受け取ったように見えた(この扇がまた後の段への伏線となっている)。この段を語るのは呂勢太夫、三味線は鶴沢清治。とても安定感がある。

今回の公演で気づいたのが太夫・三味線の衣装が夏らしく涼しげだったこと。おそらく麻の生地でできた白い衣の上に、水色?の半透明の地に模様の入った肩衣を羽織っていた。その後登場する太夫・三味線もコンビによって多少の違いがあり、どれも涼しげでお洒落だった。

薬売りの段・浜松小屋の段

この後も深雪と阿曾次郎すれ違いはつづく。国許に戻った深雪に縁談がもたらされる。その相手は偶然にも阿曾次郎だったが、このとき駒沢次郎左衛門と名前を変えていたために深雪は気づかない。思いつめて家出してしまう深雪は山賊に捕まり身売りされてしまう。なんとか逃げ延びるも苦労の末に目を泣き潰してしまう。(この辺の話は上演されなかったのでパンフなどから補う。

「薬売りの段」(後の笑い薬の段につながる)を挟み、つづいて「浜松小屋の段」。深雪は「朝顔」と名乗り瞽女となり糊口を凌いでいる。杖をつきボロボロの服を着た深雪は子供らにいじめられている。いかにもかわいそうだ。そこへ深雪を探すため順礼者の姿で各地を回っている乳母の浅香が現れる。浅香は深雪に声をかけるが、深雪は落ちぶれてしまった自分が恥ずかしく、探している娘は死んだと嘘をつく。この場面、浅香は一眼見て深雪だと気づいている(と思う)のだが、深雪のプライドを考慮して強くでない。深雪がいったん小屋に入った後で深雪の母が亡くなったこと、せめて位牌には娘の顔を見せて欲しいと遺言したことを語る。浅香が近くの茂みに身を潜めると深雪が小屋から転び出てきて先ほどの嘘を白状しつつ自らの親不孝を嘆く。聞いていた浅香も泣き出してしまう。気づいて逃げようとする深雪を浅香が抱きとめる。感動の再会。――ところがそこへ以前深雪を買って売り飛ばそうとした人買いの輪抜吉兵衛が現れる。浅香は再び深雪を連れ去ろうとする吉兵衛に立ち向かう。立ち回りの末吉兵衛を仕留めるが、自らも深傷を負い、守り刀を深雪に渡して死んでしまう。

ここでの浅香の立ち回りがかっこいい。杖に仕込んだ刀で吉兵衛に対するのだが、傷を負うとはいえ大男の吉兵衛に対して一歩も引けを取らず立ち向かう。最後も怯むことなくとどめを刺す。勇敢さとともに深雪を守りたいという情念を感じる。浅香を演じる吉田勘彌さんは立役もできる落ち着いた演技が魅力の人形遣い。今回もよかった。

ちなみにこの段から深雪(朝顔)は盲目となって登場する。パンフレットによると目を閉じた「ねむりの娘」というかしらを使っているらしい。動きにも工夫があってそれらしくリアルに見える。この点について長く深雪を遣ってきた吉田簑助は、「…盲目の人は、耳が目なんですね。だからなにか触るときは、まずそのほうへ耳を向けておいてから、耳と同じ方向へ手を出す」と語っている(『文楽の女――吉田簑助の世界』一八四−八六頁)。

この段、乳母浅香の深雪への深い愛を描いていて見応えがある。文楽におけるシスターフッドという主題が頭をよぎる。シスターフッドという言葉自体はフェミニズムに由来し、男性同士のホモソーシャルな関係に対する女性同士の絆をいう(『文藝』2020年秋号「特集1覚醒するシスターフッド」等を参照)。近代的な概念なので文楽の世界にそのまま当てはめることはできないだろう。が、封建的な忠義の原理が主として男同士の絆によるとすれば、それに対する女性同士の絆もさまざまな形で存在している。母と娘、姉妹、そして今回の場合のような乳母と娘の関係がそれにあたる。「仮名手本忠臣蔵」九段目「山科閑居の段」における、娘小浪と母戸無瀬との関係もそうである。大石家の息子力弥の許婚である小浪は戸無瀬とともに内蔵助らが閑居する山科を訪れる。しかし、判官切腹のきっかけをつくった加古川本蔵の娘であるということから大石家から結婚を認めてもらえない。継母である戸無瀬は娘の結婚をいい加減に扱ったと思われては立つ瀬がないと自死しようとする。思い詰めた小浪もいっしょに死ぬといいだし、ついに戸無瀬は刀を振り上げる(結果的に本蔵が現れ自らの命と引き換えに結婚を認めさせる)。戸無瀬には本蔵への義理立てという理由もあるとはいえ、ここでは血縁や単なる義理をこえた女同士の絆がクローズアップされている。

私が見た限りでは「彦山権現誓助太刀」も姉妹が力を合わせて父の仇を討つことが主題となっている(この場合男性に「助太刀」されるわけだが)。さらに「菅原伝授手習鑑」の「茶筅酒の段」での、梅王丸・松王丸・桜丸の三兄弟それぞれの妻である春・千代・八重の三人の絆が思い出される。夫らが忠義の世界でいがみ合っているのに対し、三人の妻は忠義の世界をこえて互いの立場を想い合って協力する。三者のキャラクターの違いも細かく描き分けられていてそれぞれに共感できる要素がある。

文楽におけるシスターフッドが男社会の忠義に対抗できているかというと必ずしもそうではないだろう。しかし、自分たちが生きる社会的ないし時代的条件という制約の中で、相対的に弱い立場にある者同士が支え合う姿は、現代を生きる私たちにも勇気を与えてくれるように思う。

嶋田宿笑い薬の段

駒沢次郎左衛門と名を変えている阿曾次郎は同僚の岩代多喜太とともに宿に止まっている。そこへ岩代と親しいという医者の萩の祐仙がやってくる。実は岩代はお家乗っ取りを企む悪者の一味で、祐仙と謀って駒沢を暗殺しようとしている。祐仙は毒入りの湯で茶を点て駒沢に飲ませることを企んでいる。だが、宿の主人の徳右衛門がそれに気づき、隙を見て笑い薬にすり替える。

この「笑い薬の段」は奥を咲太夫が語っている。こういう軽妙な場面がやっぱりうまい。咲太夫の語りは芯が通っているというのか、面白おかしく語っていてもまったくブレがない。客席の笑いに阿ることも全然ない。横に控える燕三さんも真顔でぴくりとも笑わない(三味線弾きはだいたいにおいてクールだ)。白湯くみの咲寿太夫も、悲劇的な演目の時はしばしば号泣している(ように見える)のに今回は表情を変えない。

文楽のチャリ場は現代の感覚ではくどくどしく感じることが多いのだが(あるいは私がせっかちだからそう思うのかも)、咲太夫の語りで聴くとくどさを感じることがあまりない。むしろずっと聴いていたい。この感覚は悲劇的な場面を咲太夫が語る時にも共通する。愁嘆場になると多くの太夫は主人公の気持ちに入り込み、その感情を劇的に表現する。それはそれで聴きごたえがあるのだが、太夫が自分の語りに酔っているだけではないかと感じることがある。咲太夫ではそういうところが全然なく、舞台を俯瞰するような視点からそれぞれの人物を語り分けているように感じる。かといって怜悧で情に欠けるということではない。あくまで形を崩すことなく、それぞれの人物の心根をきちんと描いてくれる。それによりドラマが立体的に感じられてくるのだ。

この場面、祐仙を演じる蓑二郎もたいへんよかった。お茶の点前を演じるのだが、服紗を開いたり畳んだりする仕草、茶を点てる仕草等が変なふうに誇張されていて滑稽だった。お点前のやり方をきちんと知らないので知っていればもっと面白かったかもしれない。ちなみに祐仙の役は過去に前回の公演で引退された簑助さんも演じている(パンフレットに写真が載っている)。蓑二郎の演技は師匠の簑助譲りなのかもしれない。

宿屋の段・大井川の段

ここではまたも深雪と阿曾次郎のすれ違いが描かれる。宿屋の自室で駒沢(阿曾次郎)は衝立に例の「朝顔」の歌が記されているのを発見する。徳右衛門に頼んでその歌を歌って暮らしているという娘を呼び出す。はたしてその娘は朝顔と名を変えた深雪だった。盲目の深雪は阿曾次郎に気づかない(だが声には聞き覚えがあると思う)。阿曾次郎の方も岩代が同席している手前自らの正体を明かすことができない(明かしてもよいのではと傍目には思うのだけれど、岩代に知られて弱みを握られたくない、あるいは深雪を巻き添えにしたくないということなのだろうか?)。岩代が部屋に戻った後、駒沢はもう一度朝顔を呼ぼうとするが、すでに他所に呼ばれていて出立の時刻に間に合わない。仕方なくお金と盲目が治るという薬、そして自らの正体を記した扇(「明石の段」で深雪から渡されたあの扇)を徳右衛門に託して宿を出る。戻った深雪は贈られた扇によって駒沢の正体を知る。やっぱり阿曾次郎だったかと取り乱す深雪。雨も降り出していて暗いのに一人では危ないという徳右衛門を全力で振り切って阿曾次郎を追う。

この場面からつづく「大井川の段」にかけてが、おそらくこの演目の白眉だと思う。駒沢の正体が阿曾次郎だと分かった深雪は、ちょっとどうかと思うくらい徳右衛門と取っ組み合った末に宿を飛び出して行く。しかし、折からの大雨により大井川は川止めになっている。絶望して川に身を投げようとする深雪。そこへ秋月家の下僕である関助と徳右衛門が追いついてきて深雪を制止する。浅香から預かった守り刀を見て徳右衛門は突然自らの腹にその刀を突き立てる。徳右衛門は実は自分が浅香の父だったこと、若気の至りで奥女中と関係を持ってしまったために手打ちになるところを秋月家の弓之助(深雪の父)に助けられたことを語る。阿曾次郎が深雪に渡した薬が甲子の年の生まれの男子の血といっしょに飲むことで効力を得ると聞いたことから甲子生まれの徳右衛門は自らの命を差し出したのだった。薬を飲み目が開く深雪。それを見届けた徳右衛門は命尽きる。今回の芝居はここで大団円を迎える。「大井川の段」を語ったのは靖太夫。力演だったと思う。

「大井川」の場面は劇場ロビーの芝居絵に描かれている。いつも目にしているのでこれがその場面だったかと今回初めて分かった。芝居絵は近代日本絵画風の技法で描かれている。「大井川」と書かれた標木に縋り付く深雪の姿が劇的に表現されている。人形を遣っているのはおそらく吉田文雀である(私が文楽を見始めた年に引退され、その後すぐ亡くなられた)。芝居が終わった後、絵の前で立ち止まって話している人、絵を背景に写真を撮っている人がいた。

全体を通しての感想

深雪という人物はたいへん情が深く、阿曾次郎のことを一心に想っている。それに比べて阿曾次郎は、深雪を愛してはいるのだろうけれど、ちょっと心根がわからないところがある。女が男を一途に愛するという話は文楽(だけではないが)に多い。「道成寺」における清姫の安珍への執着がわかりやすい。「本朝廿四孝」の八重垣姫の勝頼への思慕もそれに似ている。「仮名手本忠臣蔵」のお軽も、勘兵衛を無理やり引っ張っていき、そのことが一連の悲劇の遠因になる。世話物においても近松の「曽根崎心中」のお初がそうかもしれない。「天満屋の段」ではお初が主導する形で心中へと導いていく。年若い(おぼこい)娘が男に恋したことで悲劇を招くということではシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」とも重なる。「ロミオとジュリエット」もジュリエットが主となり物語を動かしていくように思う(「朝顔話」は最後二人が結ばれるので悲劇ではないが、途中までは悲劇のプロットそのものと言ってよいと思う)。

文楽に限らず一途な女を描く作品は多い。けれど、今回の演目もそうだが、文楽だから説得力を持つドラマになっているところはあると思う。深雪の阿曾次郎への執着は現代的な感覚からするとちょっとしつこ過ぎるように思う(ストーカーと言われかねない)。芝居の中でさえ、阿曾次郎を追って落ちぶれた朝顔(深雪)の身の上話を聞いた岩代に「しかし男日照りもない世界にハア気のせまい女だな」と言われている(この辺り客観的に見るとそうだよなという観客の気持ちを代弁していて面白い)。けれども人形が演じると一途な深雪がひたすら可哀想に思えてくる。人間が演じるならその人(役者)の人間性とか背景とかがどうしても現れてくるのだが、人形だとそういったものがなく物語に描かれたキャラクターのイデアがそのまま体現されてくるからだと思う(およそ同じことを作家の三浦しをんは「文楽の人形は魂の「入れ物」である」(『あやつられ文楽鑑賞』文庫版146頁)と表現している)。

全体を通し起伏に富んでいて、見ていて飽きることのない作品だと思った。ぜひ、全編とはいかないまでも、「蛍狩の段」を含む形での上演が観てみたい。

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