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間話1.6 エー氏の生まれ

 かの若い言語学者の生まれは、大陸の北の端の小国、ジンクムだった。その国は極圏に近く、冬は絶え間ない吹雪に見舞われる。大地も海も凍りつき、人々は家に閉じこもって、薪の心配をしながら、ただただ春を待つ。冷気が丸木組みの壁をすり抜け、綿入りの上着越しに皮膚を刺した。気候は過酷過ぎるほどだった。それでも、採掘と精錬に従事する苦役夫たちは、森に入りってカラマツやモミ、トウヒの大木を切り倒し、十人がかりで引いて運ぶ。あるいは、石炭、亜鉛や錫の鉱山でつるはしを振るい、荷を精錬所まで担ぎ、炎の中へ落とし入れた。出来上がったインゴットは冷めぬまま、倉庫に積み上げられた。

 この国はひどく貧しい。鉱物があるにはあるが、土は痩せこけ、ライ麦とソバが申し訳程度に育つほか、短い夏の間に硬いカブが大きくなるばかりだった。漁港の氷が解ければニシンやタラが山ととれたが、人々の食卓に登ることはなく、半分は教団に召し上げられ、残りは干し魚や魚油として輸出された。山道を越えて大陸の南からやって来た品々は、湖の畔にある“肺病のまち”に送られて、サナトリウムで暮らす裕福な外国人の手に渡った。ジンクムの産業で特筆すべきは二点だけ。巡礼と大理石の卵である。

 先の時代の暴政は、国中に多数の塔や教堂を残した。その石造りの建築物の見事な様式、規模の大きさは、開国後に大陸中の巡礼たちを惹きつけた。祀られている神々は、時代により異端視さえされた〈暗い水の神〉とその子供たちであるが、首都と副都は巡礼たちが落とす金で潤っていた。国の北東にある“聖なる城塞市”の寺院までも、供えものの香が絶えることがなかった。大昔、城塞市は単なる石切り場だったと言う。そこで石の本が見つかって以来、〈暗い水の神〉信仰の中心地となった。市の地下は、石切り場跡を整えた広大な神殿となったが、公開されることはない。

 巡礼たちは南山脈の門前門からジンクム領に入り、宿場町に寄りながら首都にたどり着き、西の副都を訪ねるか、さもなくば北東の城塞市へと向かった。行く先々で寄進し、香を上げ、祈り、帰路には大理石の卵を買って故郷に戻る。旅を共にした卵は、信者たちの故郷の井戸や河、ときには海に投げ入れられる。

 まだ少年だった彼が神聖言語に初めて触れた場所は、卵の採掘場だった。彼の父親は炭鉱で働く苦役夫だった。苦役夫の子供もまた鉱山で働く習わしであったため、彼は七つのころから、マールモールの丘にいた。そこは北西の山岳地帯であり、名実ともに世界の端だった。

 体躯の良いものはつるはしで岩壁を砕く。体躯が劣るものは石を拾い集めて運ぶ。次に女子供、老人や病人が、タガネで少しずつ石を割る。当たりの石であれば、石はたやすく割れて、大理石の卵が転がり出る。それは鶏卵より一回り小さい。白は並、黒は上、赤が特上。傷も凹凸もない完璧な卵型の大理石だ。多くの場合、模様は通常の大理石と変わりないが、稀に、神聖文字が紋様に見られることがあった。

 文字の大きさ、数、字体は様々で、五百年前に発掘されたという有名な卵は、青色の地に金色で二千文字の教典が浮かんでいる。無論、このような例に出会うことは、まずもってないことで、鉱夫もただの模様か崩れた文字か迷うような代物が大半である。ただの一文字があるだけで、価値が跳ね上がるため、労働者がこれを見逃せば厳しく鞭打たれた。しかしわざわざ、値付け中の鑑定人まで卵を見せに行き、しまいにはガラクタであったと判明したならば、顔が歪むまで殴られるのであった。

 彼が自分の才能を自覚したのは十歳のころである。時折、彼よりもずっと経験を積んだ苦役人が彼に卵を見せに来るようになっていた。いつ何時も、彼の判定に過ちはなく、大まかな売値さえ予想してのけた。神聖文字の種類は十万字に達し、字体も考慮すれば百万種を超える。専門教育を受けたマールモールの鑑定人とて、全員が全員、意味までも完全に知りえる訳ではない。ゆえに、この丘を出た卵は大陸中で幾度も鑑定され、競りにかけられ、価値ある古物として人の手から手に渡り歩く。

 あるとき、高名な神官が首都からこの鉱山にやって来た。
「夢によれば、十九の石を選んで砕き、得た卵のうちに吉兆あらば神託を授かる身となり、凶兆あらばすぐさま谷に身を投げるべし、と」
 神官と鑑定人の長は半日かけて石を選りすぐった。神官はみずから、震える手で石を割った。十九の石から見つかった卵は、白が二つと黒が一つ。そのときの石割り場の群衆に、かの少年も混じっていた。生まれてから十年、神官というものを初めて目にした。

「白い卵は無字。黒は……トラツグミ」
 鑑定人も神官も意見を同じくした。卵側面、黒地に白く親指ほどの大きさの文字。恐らく東方第三紀の儀典字体が平たく潰れたもの。トラツグミ。迷いゆえの破滅を象徴する文字。神官の手から卵が滑り落ちて転がった。神官は顔を歪め、聖句を唱えた。鑑定人は、苦役夫らに急いで石を割り直すように言った。価値はないが、豆粒のような卵が出ることもあったのだ。数年に一度は。

 しかし、すでに、石割り場を出、霧がかった山道へと歩みを進めていた。十歳の少年は凶兆の石を拾って神官を追った。
「良かったね、おじいさん」彼はそう言いながら、卵を神官に突きつけた。神官は、卵の側面を見るのではなく、真上から見下ろすことになった。卵を頭から見ればそれは、誰もが見たことのある文字、真円に逆三角形が重なった文字、〈暗い水の神〉とその恩寵を表す文字の、正字体だった。

 その後、神官は大枚を払って彼を買い上げ、大陸の中央にある学府へと送った。少年の父はすでに落盤で死んでおり、母も流行り病で亡き人となっていた。そのため、神官は学府の知己に後見人を頼み、少年名義で大金を預けた。やがて彼が十五歳になり、正式な名前を授かり、寄宿舎を離れて自分の道を選ぶようになったとき、その大金はどのような選択肢も可能にしたが、結局、彼は学府に残って神聖言語を専攻することに決めた。


#逆噴射プラクティス

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