一九六四年のクリスマス

 クリスマスの前夜、戸惑い、泣き叫ぶ子どもを尻目に、大人たちは嘲笑しながら通りを過ぎ去って行く。香水瓶が立ち並ぶような、夜の摩天楼。宝飾店のショーウィンドウ、外国製の高級車、下ろしたてのスーツ、ミンクのコート。白金の腕時計、ダイアのネックレス、恋人たちの囁きと、シャンパンへの期待。富が呻る五番街、新聞を売るスタンドの正面で、5セント硬貨も持たぬ幼児がキャンディーの販売機を見ながら泣いている。母親は力なくただその光景を眺めていた。行き交う人々は嗤うばかりだった。

 そのような光景を、男は気も留めない素振りで通り過ぎた。大通りを横切って大理石の階段を上がり、回転扉を抜けた。ホテル〈Paradiso〉。一流だった。彼は、暖かな光に満ちたエントランスも、恭しいボーイも、カクテルのサービスも尽く無視して、パーティードレスの間を縫い、クラブホールに入った。彼は一番隅の薄暗いテーブルに着いた。彼に気が付き、こちらはご予約席です、と言うボーイに、そのニコラウスですと告げる。コートは預けず、ウイスキーの水割りを注文した。
「それからシャーリーにマティーニを」

 クラブは満席だった。ステージにはピアノと歌手。客席のディナーと銀のナイフ、グラス、イヤリング、カフスボタン、指輪、バッグ、スパンコール、宝石、砕かれた氷、ボトルについた雫。キューバ産の葉巻、フォアグラのテリーヌ、小さなプレゼントの包み、小切手、部屋のキー、チップの10ドル札、銀の盆、蝶ネクタイ、磨き上げられた革靴、女を待つ男。誰も彼もが、人生の成功者に見えた。

「こんばんは、ニコラウスさん」
 女ではなく娘と言うべきか、彼女はあどけなさを化粧で誤魔化していた。ニコラウスと名乗った男は、娘を案内してきたボーイに150ドルを握らせた。「最上階の鍵。それからエッグノックを、アルコール抜きで。今夜は寒い」

 クラブの照明が暗転して歌手が入れ替わる。彼はウイスキーのグラスをテーブルの脇に寄せて、マティーニを引き寄せた。あら、酷いのね、おじさま、私に飲み物はなくて。いや、君に酒は早すぎる。彼はやって来たエッグノックを彼女の前に滑らせた。歌手が甘ったるい声で歌い始める、ムーン・リヴァー。ステージを見遣る娘の横顔に表情はなく、虚ろな瞳は光を反射しない。娘……いや、まだ十六、七の少女だった。少し痩けた頬は化粧でも隠せない。うなじは骨に沿って凹凸を描いている。浮いた鎖骨、手首にうっすら見える幾つもの傷跡、右手小指の割れた爪、赤黒くなったその指先。ドレスもよく見れば生地がくたびれている。後ろで束ねたブロンドの髪だけが唯一、華やかさを保っていた。

「私は今年で二十歳になるのに、あなたは私の何を知っていると言うの?」 彼女は悲しげに微笑んだ。
「とても疲れている。虹の端でも探して生きているように」
「虹の端っこ?」彼女はステージの方を向いたまま聞いた。
「虹の根元には夢が埋まっている。でもいくら探そうと、根元なんてものは無いんだ。虹は途中で切れている。そんな話さ」
 彼女は表情を動かさない。
「私は虹なんて見たことがないし、探してもいない。神様には毎日お祈りするけれど、何にも叶えてくれない。だからたぶん、おんなじことね」
 少女の指に、ティファニーで最も安い、銀のリング光っていた。
「何をお願い事している?」
 ボーイがナプキンをテーブルの上に置いた。中にはスイートの鍵と一枚のメモ。部屋の位置と金額。男は小切手を切った。
「あなたに言う義理は無いわ」彼女はエッグノックを突き返した。早く行きましょう。それがお望みでしょう。

 二人は静かにクラブを抜けてエレベーターに乗り、二十三階のボタンを押した。昇降機は古く、動きは緩慢だった。どうして私なんか指名したの。最底辺なのに。人に頼まれたんだ、大事な人に。彼はそう言って封筒を取り出した。滑車とワイヤーが軋んだ。最上階に着くまで、たっぷり1分半は必要だった。話をするには十分な時間があった。話と言っても、手紙を渡して、二言、三言、付け足すだけでよかった。

 昇降機が止まり、二人は廊下に出た。古い羽目木細工の床に赤い絨毯が続いていた。エレベーターフロア数を示す針は二十三階を振り切っていた。彼はすすり泣く少女の手を引いて、スイートのドアを通り過ぎた。

 廊下の突き当りに、クリスマスリースが掛けられた小さなドアがあった。高級ホテルには不似合いな、古臭く、ペンキが剥げたドア。こんな部屋なんてあったかしら。大きな窓から、都市の果てまで見渡せた。幾千の窓の灯、欲望を詰めたガラス瓶を並べたような光景だった。彼女は髪を解いてベッドのに身を投げ出した。あの天窓、ずっと昔に、どこかで見たような気がする。開いた天窓から雪が降り込み始めたが、寒くはなかった。少女はむしろ暖かく感じさえした。

「君がずっと欲しがっていたもの。十六年分のプレゼントを。神様から」
 男はそれを少女の手に握らせた。少女は微笑んだ。虹の端っこはあった、そして神様は、私を見ていらしたのね。彼女はゆっくりとその拳銃を胸に当てた。とても穏やかな顔で引き金をひき、心臓を撃ち抜いた。シーツに赤い血が広がって、窓からは白い雪が羽のように降り積もった。男は部屋の隅の蓄音機に古いレコードを乗せた。ムーン・リヴァー。「ゆっくりおやすみ、シャーリー」彼はそっと部屋を出ていった。部屋は眠り、柔らかな闇が辺りを包み込んだ。

 幼い娼婦が一人、行方不明になったとて、新聞記事にもならなかった。誰一人、彼女が消えたことを気にするものはいなかった。人々はめいめいに、自分のクリスマスを楽しんでいた。


#逆噴射プラクティス

(昔の原稿の改稿)

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