かわいそうなボブ(シリウス編1)

 ボブは惑星シリウスβに到着してから、ユニヴァース・ステーションのゴービーショップ、スターバッカーで2時間と23分も翻訳機をいじくり回していた。本日のプレミアムゴービー(炭素型生物分類29用)はすっかり脱水素化してベチャベチャだ。ふにゃふにゃのバランスボールみたいな座席に座りっぱなしであるため、図らずも体幹の筋肉が鍛えられる。ヒト型生物はかなり珍しいのだ。大半の高等宇宙生物はタコやらナメクジやら甲殻類みたいな(注意:ポリティカルインコレクトな表現)身体だ。

 そもそも人間の理解力に比して宇宙基本言語は難解すぎる。それは音波ではなく重力波を媒体として伝達される。高等生物の体内の極小ブラックホールやケンタウリ人の手によるぴかぴかした翻訳機、街中にある看板――の役割をする任意の限定空間――から発せられる指向性重力波が言葉に相当する。さらには文法、と言っても名詞も動詞も形容詞もない、ある種の主観的イメージの直接伝達と、小刻みなタップダンス的跳躍を足して二で割ったような何か、の複雑なルールを解きほぐす必要がある。大学生に適正な飲酒を指導することすらできない文明に、果たしてこれが正しく翻訳できるだろうか?

 ボブの横を通り過ぎる無脊椎動物みたいな(注意:非常に侮蔑的な表現)異星人達は時々立ち止まる。「かわいそうな文明後進生物」「低級生物はステーション内に入れるべじゃないよなぁ」などと言っていることは、なんとなく分かる。重力波が見えなくたって分かる。一方でギャラクティック・アップル社製の翻訳機は煙を上げ始めた。糞、地球で唯一、スペース上場できたメーカーだろ……。ボブは一旦落ち着くために、タオルを取り出して目隠しにした。彼のバイブルに書かれている方法だ。目隠しは全ての問題を一時的に解決できる。それからプレミアムゴービーをすする。

「スターバッカーのゴービーは、あらゆる高等生物の皆様に最適なレシピに従って作られます。アカシック・アーカイブから本場の飲料をクォークレベルで再現するのです!」今日の炭素型生物分類29(通称ヒト)用のゴービーは、トマトパスタの缶詰とうなぎの煮こごり入りアッサムティーだ。ちなみに昨日のメニューはトマトパスタの缶詰とうなぎの煮こごり入りアッサムティー・ノンシュガーバージョンだ。

 スターバッカーは既知の全星系に20テラ近くの店舗を展開する大企業であり、その飲料は高い評価を受けている。アカシック・アーカイブは完璧だ。ただ、ヒトという種はあまりに稀少すぎた。現地取材を徹底するアーカイブ調査員も、地球だけは1億光年彼方からのニュートリノ・スキャンですませてしまった。ちなみにボブが注文したゴービーが宇宙史上最後の炭素型生物分類29用ゴービーになった。フニャフニャのパスタが気管に入ってボブは咳き込んだ。もう二度とゴービーなんか飲むもんかと誓った。それゆえ、翌日に予定されていたトマトパスタの缶詰とうなぎの煮こごり入りアッサムティー・ノンシュガー&ソイミルクは日の目を見る可能性を永遠に失ってしまったのだ。

 銀河系外宇宙旅行というのもは、地球において最も人気がない娯楽だ。全宇宙後進惑星支援協会の補助事業により、実質旅費はタダで済む。一人当たりの旅費の補助は地球19.8個分の資源量に相当するのだが、宇宙旅行体験自体については、中東あたりで反政府ゲリラ組織に拷問を受けたほうが楽しいと言われている。ちなみにボブが残したゴービーの価格はユーラシア大陸一個分ほどである。

 ボブが人気ツアーランキングの下から三番目「大中華共和国に眠る伝説の街、TOKYO遺跡で21世紀のプラスティック・ストローを発掘する泥沼10日間ツアー」でもなく、最下位の「カイパーベルトの小惑星3190SK2(直径15m)に着陸」でもなく、ブービーにあたる「全宇宙後進惑星支援協会推薦、後進生物のための教導的宇宙周遊旅行」をしているのには訳がある。旅行代理店が書類を間違えたのだ。誤りの発覚はボブが月の亜空間ゲートを越えた直後である。規定の旅行期間、地球時間にして約21億年と789万年を過ぎるまで帰りのゲートは開かない。その頃にはボブは中性子星の一部になっていてもおかしくはない。

 ヒトが宇宙旅行するなんて無謀だ。ボブは頭を抱えた。宇宙の高等生物の知的水準も技術水準も高すぎる。ヒトは看板の翻訳さえできないのだ。平均的な異星人をチェスの世界チャンピオンに例えるなら、人類は焼き立てのプリンだ。プリンがチェスでチャンピオンに勝てるか?無理だ。手がない以前に、そもそも脳がない。まだシュークリームの方がマシだ。少なくともプリンより見た目が脳っぽい。あるいはジンジャーマンクッキーの方が良いか?

 ムーンゲートが閉じる寸前に旅行代理店が異空間越しに投げてよこしたお詫びの手紙と翻訳機。「通常、当社の規定通り保証は旅行代金内に限らせていただきます。お客様の本ツアー料金は0ドルですので、返金は切手代50セントのみになります。しかし今回に限りまして心ばかりのお詫びの品をご用意いたしました――」

 心ばかりのお詫びの品。旅行代理店のロゴ入り紙袋に無造作に突っ込まれたロゴ入りボールペン、ロゴ入りポケットティッシュ、ロゴ入りタオル、ロゴ入りTシャツ。それから翻訳機入のロゴ入りポーチ。これはスタッフの私物を誤って入れてしまったのだろう。翻訳機の他にペン数本とくちゃくちゃのメモ用紙、食べかけのスニッカーズ、マクドナルドのクーポン(ポテト半額)、口臭予防ガム二粒が入っていた。

 ボブのゴービーは、通りがかりの親切なイギリス人紳士がくれたものだ。「すまんね、私は急いでいるのでこれくらいのことしか出来ないが、良い旅を」ゴービー屋のスキャナがイギリス人に反応したために、紅茶風ゴービーになったのだろうか。イギリス人の味覚に関してはどうも納得がいかない。フィッシュ・アンド・チップスだけはなかなか美味しい。いや、ちょっと待て、ここはJFK空港じゃなくてシリウスβのユニヴァース・ステーションだぞ、どうしてイギリス人がいる? ボブが顔上げてステーションを見渡しても人型生物どころか人型に近い生物すら居ない。今は地下鉄の壁に張り付いたガムみたいな生物がやたら多い。ボブは地球に帰る大きなチャンスを逃したことに気がついた。

#逆噴射プラクティス


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