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マテバシイをたてる

以下文章は内房総アートフェスに出展している《鉄と海苔》の作品で展示しているものです。

マテバシイをたてる

 君津の人とマテバシイは似ている。

 マテバシイはブナ科マテバシイ属の常緑広葉樹だ。葉っぱが大きく育ちの早いドングリの木。房総半島には多くのマテバシイが広く分布しているが、元々は九州南部、南西諸島が原生と考えられている。千葉ではトウジイ(唐椎)ともよばれ、主に薪炭や海苔養殖のひび建てに使われたため明治から昭和初期にかけてマテバシイが大量に植栽された。

 ひびとは、海苔養殖に使われる漁具で木の枝を数本束にしたものだ。ひびを海底に突き刺し海苔を付着させ育て収穫した。当初マテバシイは海苔漁師にとって重宝されていたが、大正時代より徐々に技術革新が進み、次第にトウジヒビは竹ヒビや網ヒビへとって代わられて使われなくなっていった。昭和三〇年頃には薪炭も使われなくなり、マテバシイは生活の道具や材料から姿を消していった。植栽されて一五〇年が経った現在はマテバシイはすっかり活用されなくなった。

 君津は「民族大移動」と呼ばれた二万人規模の移住が一九六〇年代に行われた場所である。海苔の養殖が大きな産業だった君津だが、昭和三六年に漁業組合が漁業権を放棄し、海苔漁を行っていた海岸を埋め立て君津製鉄所が稼働することになった。北九州を筆頭に各地の製鉄所から家族と共に君津へ移住し、現在ではその孫やひ孫の代が誕生している。製鉄所がきっかけで君津の人になっていった九州の人たちの多くは現役を引退し、この公民館(八重原公民館)で人生を楽しんで過ごしている。実はマテバシイも活用されなくなって消滅したわけではなく、元々自生していた木々たちとの区別がつかないほどにあたり前の風景の一部になって、今ではのびのびと育っている。昭和四七年には君津製鉄所を囲う緑地帯にマテバシイのドングリが地元の小学生の手によってまかれ今では郷土の森と名付けられたりもしている。

 僕には南方からきたマテバシイが一五〇年前に植えられ房総半島に馴染んでいったことと、八幡からきた二万人もの人たちが世代をまたぎ、君津に定住していったこととが重なって見える。さらにいえば、そのずっと前からも多くの人が外からこの地にやってきては住み着いていったのだ。はじめは目的があったり必要があってやってきたものも、時間が経つことで元々の用途を越えてその存在自体が目的となっていく。存在自体が目的になっているものが増えるほどにその場所が豊かになっていくのだと僕は思う。マテバシイのように。


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