ディジタル書斎9 身体で知識を獲得
身体で知識を獲得する
これまでデジタル技術による情報の収集を紹介してきたが、デジタル技術だけでは知識を吸収する事はできない。知識の獲得には身体的な動作が本質的に重要である。これは「身体化された認知」という概念である。手を動かし身体を動かし、注意深く観察することなしに、高度な知は獲得できないということである。私たちの物理的存在が、それを生み出した社会から切り離せないと同じくらい、我々の思考を我々の物理的な存在から切り離せないということである。
例えば地図とコンパスで移動ルート検討するという活動から得られる知識の獲得は、GPSでルート探索をする活動では代行できない。 Googleの検索エンジンで情報を探すことと、図書館や書店で情報を探しだす行動とは別である。辞書を引くという行為についても、これまでの辞書引く場合には否応なしにその周辺に類似語が目に入り、場合によってはまったく別な意味があることに気づくことになる。単語だけをWebで調べればその単語だけの意味が効率的に表示されるが、紙の辞書で引いて単語に赤鉛筆でアンダーラインを引いていったあの知的な作業とは別の世界である。
自動化のジレンマ
最近は人工知能が進歩し、チェスや将棋の名人が人工知能に負けることがあるが、そんな人工知能も人間の思考過程と同じ処理をすることができるのではなく、猛烈な速度と膨大な蓄積された情報から結果を探し出してくるだけである。したがって決して創造的な結果を出すことを代行できるのではないと認識したほうがいい。ただこれまで人間の高度な知的作業でしかできないと考えられていたことが、膨大な情報と超高速の検索能力があればほとんど結果を出すことについて代行できることもわかってきた。場合によってはむしろ人々よりも優れた結果をもたらすこともある。これがビックデータの正体である。
航空機はほとんど無人で離着陸と巡行ができるが、予期せぬ状況において対応できないこともある。そのときには高度に訓練されたパイロットの力量が必要となるが、問題は普段あまりにも自動運転のシステムに依存していると、予期せぬ状況に対応する能力が退化することが問題視されている。
上記のリスクが顕在化した事例として、パイロットが予期せぬ状況に対応できず、ブラジル発のエールフランス機が大西洋に墜落した事故と、逆にUS AirwaysのエアバスのA320がNYのラガーディア空港離陸直後、野ガモの群れが飛び込んだせいで全てエンジンがストップした時、機長と副操縦士は息詰まるような3分間の後、故障した機体を無事ハドソン川に着水させ乗員乗客は全員無事脱出した例で、改めて自動化されたシステムの環境にあっても、人間独自の能力を磨いておく重要性が再確認された。
身近なところでも例えば、刃物は研いで使うのが昔は当たり前で、誰でも持っていたスキルであるが、今日現在台所の包丁すら研げる人は少ないのではないだろうか。自動車にしても以前はボンネット開け、オイルを点検し、冷却液をチェックするのは当然であったが、最近はそれもする人は少ない。当然クラッチ操作ができない人が多い。思えば私も最初に乗ったカローラはむろんマニュアルシフトで、冬季にはオートチョークを引く必要があったことを思い出した。パンクでよくタイヤ交換もした。
新聞の記事もごく最近まではナイフで切り取り、保存していたが最近はすっかりEvernoteのお世話になっている。切り抜いているという行動でどんな記事があったか記憶に強く残ったと思う。今では検索でいつでも必用な情報を引き出すことができるので極めて知的作業は効率化された。日経新聞の電子版を読んでいる時や、Google検索のとき関連したEvernoteのスクラップ情報提示してくれる機能で助かっているが、これは脳の退化につながっていると思う。
膨大な情報と高速処理の人工知能のプログラムがあれば、文章も自動的に作文してくれる時代になってしまった。聞くところによるとこの手法で記事を作っている通信社もすでにあるらしい。
デジタル技術による情報爆発
パソコンがない頃は原稿用紙に万年筆で文章書き込んでいたがいつのまにかワープロで文章書くことになり、漢字がどんどん書けなくなっているということは多くの人が実感している。しかし文章を綴るという作業の効率性は格段に上がった。この効率性は学術論文の爆発を引き起こした。
40年くらい前はIBMのタイプライターで論文を打ち込みミスがあると白いペイントで塗ってその上から打ち直した。したがって1本の論文を書き上げるのに相当な時間がかかった。ワープロの導入によって画期的にこの時間が短縮された。加えてインターネットの普及により郵便で原稿を送る必要もなくなった。そして学術論文の爆発的な増加となった。
例えば太陽光電池に関する論文についていえば1990年までは年間200ないし300本であったが95年以降急増し現在では年間数千本の学術論文が発表されている。したがって太陽電池の研究者は殆どの論文を読むことができない。その結果専門化が進み、研究の蛸壺化になった。この現象はほとんどの学術分野に共通する事で、本来ならば広い範囲の知識が構造化され本質的なイノベーションが起きる可能性を無くしているかもしれない。
行動で知識を獲得する
結論からいうとデジタル技術を使って効率的な情報の収集、分析、編集をする必要があるが一方では目、耳、手、場合によっては嗅覚を使って生の情報獲得することを怠ってはならないということである。ある時間自然の中で現代文明の恩恵を極端に減らした時間を持つことも重要であるだろう。
現場に行って、現物を見ない限り、現状を正し理解できないという“三現主義”の教えは今でこそ肝に銘じる必要がある。