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【野球】野村克也さん逝去で思い出す、村田兆治さんとの会話

ノムさんこと、野村克也さんが亡くなった。奥さんの野村沙知代さんが亡くなってから、本当にさみしそうだった表情が印象深い。亡くなられた状況は詳しくわからないけれど、お二人とも長い闘病生活の末でも急な事故でもなく、あえていえば苦しむことのなかった最期だったのではないだろうか。心から野村監督の、そして改めてご夫婦お二人のご冥福をお祈りします。

昔、ある名家のご当主の本を作るというお仕事をいただいたときに、依頼主がノムさんの本をいくつも手掛けていた。野球好きならこっちも、という会話があったような記憶があるが、大元の仕事の話が流れてしまったのでそちらも沙汰止みになってしまった。ご縁がなかったということだけれど、一度でもお目にかかってみたかったと思いだす。

「不屈のマサカリ」村田兆治氏との思い出

そんな具合にご縁がなかったノムさんのことを考えていたら、とある偶然で少しだけお話した村田兆治さんのことを思い出した。昭和の野球好きなら誰もが覚えているあのフォーム、マサカリ投法から繰り出す剛球とフォークで三振の山を築いたあの村田兆治さんだ。

当時おれは会社勤めをしていて、吊るしのスーツなんか着て慣れないサラリーマン生活を過ごしていた。

どれくらい慣れてないかというと、こんなふうだ。勤め先の会社が、ホテルの大宴会場を借り切ってある賞の受賞パーティをやることになって、おれたち社員もお手伝いとして動員された。受付とか席の割り振りとか、そんなメインどころは他に担当している社員がいる。もちろん、ホテルのスタッフは有能だ。お客様の誘導でもしておけ、といわれたおれは気軽に会場のホテルに向かったんだけど、着いてみるとネクタイしてない社員はおれだけ。そりゃクールビズの時期だったけど、主催側なんだからネクタイするのは当然だろう……ということがわからないくらい、サラリーマンらしい振る舞いには慣れてなかった。

呆れ顔した上司に「お客さんがいるところに顔を出すな」と言われたおれは、これ幸いと社員の荷物置き場兼用の控室でのんびり羽を伸ばしていた。まあ、ちゃんとしたサラリーマンならこのスキにネクタイでも買いに行けばいいんだよね、今思うと。

だが、ちゃんとしたサラリーマンじゃないおれに、偶然が訪れた。社員控室のドアを開けて入ってきた人がいる。まるで小さな山のように身体がぶ厚く、大柄な男性だ。それが村田兆治さんだった。

「水は大事なんだよ。現役時代からこだわってきた」

村田さんは室内を見回しておれに目を止めると、「水はないかな、水は」と尋ねた。テーブルの上には水差しとポットがある。おれが「あ、こちらでしょうか」と間の抜けた返事を返すと、村田さんは「いや、ミネラルウォーターがいいんだ」とキッパリいった。

おれはさっそく向かいのパントリーに首を突っ込んで、ホテルマンにミネラルウォーターを持ってきてくれるようにお願いした。ミネラルウォーターは、村田さんがいた来賓控室にもなかったらしい。

どっこいしょ、と控室の椅子に腰を下ろした村田さんは、おれを一瞥して「いい身体してるねえ、何かスポーツやってたの?」と声をかけてくれた。そう、180cm80㎏の体格となると、よく「スポーツは何をやってたんですか?」と聞かれる。種目別だと柔道が一番多かったし、ある会社の社長には「センターバック体型だな」と言われたこともある。

残念ながらちゃんとしたスポーツの経験はないので、「よくもったいないと言われます」と苦笑しながらそう答えると、村田さんは「そうか、でも仕事をするにしても身体は大事だからね」と笑って答えてくれた。

「やっぱり、水道の水は飲まないんですか?」と聞くと、村田さんは「身体は水から作られるからね。現役時代から水にはこだわってた。車で何時間もかけて汲みに行ってたこともあるんだ」。そこでホテルマンが持ってきてくれたミネラルウォーターのペットボトルを渡すと、「今はこうやってちゃんとした水が手に入るから、楽になったけどね」とキャップを開け、おいしそうに一口飲んだ。

「六甲のおいしい水」が発売されて、ミネラルウォーターが普通に買えるようになったのが1983年。村田さんのプロ野球選手歴が1968年から1990年だから、「いい身体」のための「いい水」を探すために費やした時間も相当なものだったんだろう。肘の手術からの復活劇が記憶に残る村田さんだけど、こうした地道な努力でプロとしての身体を維持していたんだな。

「野球選手として最後に残るのは記録。それだけだよ」

さて、外の様子をうかがうと、そろそろ来場者も着席したらしい。来賓の村田さんにもそろそろ席についていただく頃合いだ。

会場前のロビーで、村田さんはボソッと「今日、誰か知ってる人いるのかな」という。ヒマにあかせて席次表を眺めていたおれは「元阪神、ダイエーで活躍された池田親興さんが同じテーブルですよ」とすかさずフォロー、ファインプレーのつもりだ。「池田さん、福岡ではよくテレビ番組に出たり、ホークス戦の解説をやっておられます」。

「テレビはね、よく巨人やセリーグの連中ばっかり出ていた。僕らが現役のころはパリーグの選手がテレビに出るなんて、オールスターか日本シリーズしかなかったからね。だからああいうときは全力でやったよ」。村田さんは独り言のようにぽつりと言った。

「今日の賞みたいに、いろいろ表彰してもらうこともあった」。その日、村田さんは過去に受賞した人、ということで招待されていた。「でもね、どんな賞よりも、僕たちプロ野球選手は記録。勝利数、奪三振。最後に残るのは記録だよ」。

少年時代のおれにとって、村田さんは「往年の大投手」。19勝で最多勝だった1981年当時は7歳、引退した1990年で16歳だ。巨人戦しかテレビ放送がなかった子供のころは、パリーグはスポーツニュースでも「結果だけお伝えします」ということは少なくなかった。高校時代は平和台球場に通ったけれど、残念ながら村田さんが投げる姿を球場で見た記憶はない。

でも、215勝177敗33セーブ、そしてプロ野球歴代1位の通算148暴投という大記録は残り続ける。テレビで人気者になるのも、もちろんスポーツの普及という意味ではいいと思う。でも、100年後に昭和のプロ野球の歴史を紐解いた未来の野球ファンが目を止めるのは、やはり「記録」だ。記録よりも記憶に残る、という表現はあるし、個人にとってはそれも事実。でも客観的な数字としての記録は、時代を超えて残り続ける。

そんなことを考えているうちに、村田兆治さんはホテルマンに案内されて宴会場に入っていった。おれは後ろから村田さんに一礼して、控室に戻った。ネクタイを忘れた代わりにもらった村田さんの記憶は、おれにとってはかけがえのないものになった。「引っ込んどけ」と言ってくれた上司には感謝の念しかない。

村田さん、金田正一さんの葬儀では弔辞を読んでいらしたんだな。あの訥々とした口調が今にも聞こえてくるようだ。
今は離島の子供たちと野球で交流するという取り組みを続けている村田さん。これからも、「人生先発完投」の心意気を見せ続けてほしい。

あの日、会場に入る村田さんから「ハイ」と手渡されたミネラルウォーターのペットボトル。大事に持って帰りました(未開封だったからね)。


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