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すばらしき新世界 (26)

 放課後、悟は靴箱の所で登和を待った。終業のチャイムが鳴ってから三十分が過ぎ、帰宅する生徒の混雑は嘘のようにおさまっていた。付近にはもう誰もいない。

 しばらく待っていると、登和が階段をうつむき加減で降りてきた。靴をはきかえてそのまま行こうとするので、悟はリュックを引っ張った。振り返った登和は浮かない顔をしていた。
「置いていく気?」
登和は首を横に振った。二人はそのまま外に出て、校門までの並木道を前後になって歩いていく。
「佐伯さんのこと?」
「……」
「昼休み、何か言われた?」
振り返って登和が答える。
「……私とはもう友だちにはなれないって言われました。」
「ひどいな。」
「そうでしょうか。」
登和は抗議するような言い方でそう言ったが、それ以上は言わなかった。悟も登和の言いたいことはわかっていたが、わからないふりをした。ひどいのは自分だ。しかしそれを認めると、また振り出しに戻ってしまう。悪く思われようと人に迷惑をかけようと、それはできないし、したくなかった。

 学校を出ていくつかの角を曲がり、突き当たりの線路沿いの道を二人は歩いた。車はほとんど通らず、時折電車が二人を追い越していった。前後で歩いていた距離がだんだん縮まり、登和の家の近くまで来た頃には、並んで歩いていた。
「今日は何をするんですか。」
「宿題を先にやって、数英国できれば一時間ずつはやりたい。」
「十時ぐらいにはなりますね。」
「遅すぎる?迷惑かな。」
「いや、いいですよ。私は家のこととかあるので、そんなにはできませんけど、宿題までは一緒にやりましょう。」
「うん。」
「後は、他の用事を全部終わらせてから戸締まりしに来ます。」
「ありがとう。助かるよ。」
悟は登和に頭を下げた。

 今日は玄関から部屋に通された。
「ちょっと暗いから」
登和は居間の掘りごたつのところに電気スタンドを持ってきた。電気スタンドを中央に置き、向かい合わせに座って宿題に取りかかる。
「明日は英語が新しい単元に入るからキツイ。」
「ああ、私予習しましたよ。見ますか?」
「いや、いいよ。自分でやる。」
「そうですか。」
登和は数学の宿題に取りかかった。悟が英語の予習を一ページ終わらせた時、登和は解けない問題を前に手が止まっていた。
「教えようか?」
「解いたんですか?」
「昼飯食べた後に終わらせた。」
悟は、ヒントあげる、と一行数式を書いた。あ、と登和がすごい勢いで計算を始める。
「できた!ありがとうございます。」
「どういたしまして。」

「終わったので、いったんここ片付けますね。後はごゆっくり。」
登和はリュックに教材をしまうと、縁側の端に置いた。悟は軽く会釈してそのまま英語の予習を続けた。庭からサーッと散水シャワーの音がする。予習が終わって顔を上げてみると、リュックはいつの間にかなくなっていた。声ぐらいかけてくれればいいのに。まあ、吉井さんだからな。

 宿題が終わる頃には、夕闇の色が濃くなっていた。悟は掘りごたつであお向けになり、背中を伸ばした。ここからがようやく自分の時間だ。

 他人の家なのに妙に落ち着くのは、自分以外に誰もいないからだろうか。天井の蛍光灯までレトロな雰囲気で既視感があった。ゆっくり周囲を見渡してみる。この部屋にはそれほど物は多くない。柱時計、鏡、作り付けの本棚、テレビとテレビ台。誰かの暮らしが終わるとともに時を止めた部屋が、再び息を吹き返した気配がある。先のことは何もわからないが、こうしているだけで何かが始まる期待感が胸を占めていた。

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