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逆さの旗(一)

 一九七五年四月、南ベトナム共和国の首都サイゴンが陥落する二週間前、隣国カンボジアの首都プノンペンが陥落した。
 もっとも陥落というのはあくまでも一方向から見て使う言葉だ。ある人にとってそれは「解放」であったり「統一」であったりする。
 カンボジアでは、新米のロン・ノル政権と北ベトナムおよび中国に支援された共産主義勢力クメール・ルージュの内戦が続いていた。民衆は戦争にも政治の腐敗にも飽き飽きしていた。一部の限られた人は別として、ごく一般的な国民はこの悲惨な戦争が終わるのなら共産主義勢力が首都に入城し、街が「陥落」しようが「解放」されようが構わなかった。われわれはその後にやってきた現実を今の時点から見ているに過ぎない。
 たとえば一九八四年公開の映画『キリング・フィールド』では、プノンペンに進軍してきた共産軍(クメール・ルージュ、ポル・ポト派)に対し、市民が歓声を送って出迎える場面が明るく描かれている。輸送車や戦車に乗ったクメール・ルージュの兵士たちと市民は手を取り合い、彼らの間には何の隔たりも感じられない。主人公のアメリカ人ジャーナリストは訝しげな表情を浮かべてその光景を眺めているが、助手のカンボジア人記者は往来に出て嬉しそうに叫ぶ。
「戦争は終わった」、「平和だ、平和だ」――。
 もちろんこの映画は事実を元にしたフィクションである。脚色があってしかるべきだ。ポル・ポト政権下を生き抜き、生還を果たした日本人女性・内藤泰子氏を取材した近藤紘一のルポルタージュ『戦火と混迷の日々』には以下のような描写がある。

 住民たちは通りに飛び出し、歓声と拍手で勝利者を迎えていた。
 そんな光景を見下ろしながら、泰子さんは深い感動にうたれた。戦争が終わった――五年にわたる流血と破壊に終止符が打たれ、自分はいま本当にその歴史の瞬間に立ち会っている。(中略)兵士らの表情はけわしく、市民の〝歓迎〟に応じる気配はなかった。その代わり、どこで手に入れたか、いずれも五、六本のバゲットをわきにかかえ、むさぼり食っていた。

近藤紘一『戦火と混迷の日々――悲劇のインドシナ』一九七九年

『キリング・フィールド』では「歓声と拍手」に笑顔で応える兵士たちが登場するが、近藤の著作にそのような描写は一文も見当たらない。確かに市民たちはクメール・ルージュを歓迎しているが、当の兵士たちがまったくそれに応じていないのである。
 これは南ベトナムのサイゴン陥落後の街の様子とは対照的だ。近藤の『戦火と混迷の日々』にあるように、解放の翌日には「南部出身のゲリラたちは旧体制側にいた以前の知人や旧友と手をつなぎ合って町を散歩して」いたし、北ベトナム軍の正規兵たちは「いくぶん態度が固」いものの「トラックやジープの上からしきりに愛想をふりまき、〝占領者〟としての自らのイメージを払拭しようと努力してい」たからである。
 結論から言えば貧しい農村部の出身であり、教育を受けていない者が大多数を占めるクメール・ルージュの兵士にとって都市に住む人間は敵以外の何者でもなかった。都市住民は憎しみの対象であるのみならず資本主義に毒されきった存在、栄光ある革命運動に参加しなかった役立たず、どうしようもなく堕落した人間と見なされたのである。
 首都は一日にして無人と化した。住民に対する総退去命令が出されたからだ。病人も老人も子供も妊婦も即座の立ち退きを命じられた。『戦火と混迷の日々』によれば「退去理由は、米軍機の空襲から身を守るため、と説明された」。
 もちろんこれは真っ赤な嘘である。首都から地方農村への強制移住、いわゆる下放政策がのちに続くことになるが、クメール・ルージュは農村部の住民を「旧人民」と呼ぶ一方、都市部に住んでいた人間を「新人民」と称し、農村に住んでいるものの都市部に家族がいたり、親類縁者に旧政府軍の関係者がいた者をどちらともつかない中間層として扱った。
 そしてクメール・ルージュは自らを「オンカー」と名乗った。これはクメール語で「組織」を意味する。自分たちと国民の間に線を引き、差別化を図ったのだ。
 徹底的な迫害を最初に受け、虐殺されることになったのは無論「新人民」である。すぐに家に帰ることができると考えていた彼ら「新人民」が各地の農村キャンプでどんな目に遭ったかは今さらここに書くまでもないだろう。
「愛想をふりま」くことで市民を融和しようとするのもまた政策の一部であることには変わりがない。しかし、その後のカンボジアの悲劇を考えるにつけ、同じイデオロギーであるはずの軍隊の入城時の違いは何かとても大きなものに思えてくる。
 事実、同じ旗印の元に闘ったはずの彼らの行く末は大きく異なった。ベトナムでは未だに街中に堂々と赤旗がひるがえっているが、カンボジアではこの旗はタブー視されている。軒先に赤旗を立てている家は当然一軒も見当たらない。
 ポル・ポトがカンボジアの政権を握ったのは一九七五年から一九七九年までの約四年。国名は民主カンプチアに改められ、このわずか四年の間に当時のカンボジア国民の四分の一、一五〇万人から二〇〇万人が処刑や強制労働によって虐殺され、あるいは病気や飢餓で亡くなったと言われている。
 クメール・ルージュは知識階級と有産階級だけではなく外国人や元政府軍の軍人、僧侶、芸術家、歌手を積極的に殺害した。海外に留学していた学生まで復興のためと言って呼び戻し、即座に処刑する徹底ぶりである。クメール・ルージュにとって彼らは留め置いてはおけない「過去」の異物、あるいはこれから形作るユートピアの脅威となる異分子であり、あらゆる意味でこの世には不要な存在とされた。
 その後、一九七八年十二月末にベトナムとカンボジアの間で戦争が起きる。ポル・ポトを政権の座から引きずり下ろしたのはベトナムの息がかかったヘン・サムリン政権だった。弱体化し、荒廃した国の軍隊がフランスとアメリカ相手に闘い抜いた百戦錬磨の軍に敵うはずもなく首都プノンペンは半月で占領され、国名はカンプチア人民共和国へと改められた。
 ポル・ポト派は中国の影響下にあり、ベトナムはソ連の支援を受けていた。一九七九年二月、中国は「懲罰的軍事行動」としてベトナム北部に侵攻する(中越戦争)。
 この戦争は約一か月で終息するが、時代はアメリカとソ連で東西に陣営が分かれている冷戦下である。敵の敵は味方だ。自由主義陣営、つまり西側諸国のタイやアメリカ、イギリスはクメール・ルージュを支援した。地理的にはカンボジアの東がベトナム、西がタイである。追いつめられたクメール・ルージュの残党がタイ国境付近に潜んでゲリラ活動を行ったのにはそうせざるを得ない事情があったわけだ。
 もちろん日本も無関係ではない。一九七九年九月、日本はカンボジアの代表権がポル・ポト政権にあることを国連総会で認めている。すでに首都を占領したヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)ではなく地方でゲリラ化したポル・ポト政権(民主カンプチア)を国家承認したのだ。
 首都を追い出されたクメール・ルージュが根城にしたのはカンボジア北西部シェムリアップにあるアンコール・ワットだった。
 ここには一種のわかりにくさがある。
 クメール・ルージュは学校や病院、銀行を閉鎖、私有財産を認めず貨幣制度を廃止し、国民のほとんどが仏教を信仰していたにもかかわらず宗教を一切禁止した。そうすることによって徹底的に「過去」を否定し、捨て去ろうとした。しかし、そんな集団が落ち延び、籠城したのが世界でも有数の歴史ある寺院だったのである。
 これはいったいどういうことだろう? 事実、クメール・ルージュの手によってアンコール・ワットは破壊の限りを尽くされている。貴重な仏像の数々は多くが首を刎ねられるか砕かれるかした。いや、アンコール・ワット内部のみならず彼らは各地の遺跡や仏像をとことん破壊した。本多勝一『検証・カンボジア大虐殺』(朝日新聞社、一九八九年)に収録されている座談会の矢野暢やのとおる(政治学者)の発言によれば寺院や仏像の破壊だけではなくカンボジア各地の遺跡には「卑猥な落書き」も大量に残されているという。矢野が続けて指摘するようにそれは「小乗仏教の世界ではもっとも忌むべきタブー」であり「アンチ゠カルチャー(反文化)」的行為である。だが、宗教を禁止し、「過去」を否定するクメール・ルージュにとっては仏像を破壊するのも「卑猥な落書き」をするのも当然の行いであり、革命行動の一つに過ぎなかった。
 この一連の行為は毛沢東が行った大躍進政策(一九五八〜六〇年)と文化大革命(一九六六〜七六年)の明らかな二番煎じである。クメール・ルージュを率いたポル・ポトは毛沢東思想(マオイズム)の影響を強く受けていた。紅衛兵がそうしたようにクメール・ルージュも寺院や遺跡に代表される「過去」を破壊し尽くすことによって革命を果たそうとしたのだ。
 普通に考えて、それならば寺院や遺跡を毛沢東が言うところの「根拠地」(『遊撃戦論』)にしたくはないだろう。自分たちのアジトを自らの手でせっせと壊すのは馬鹿馬鹿しい。不毛である。落ち延びた先でゲリラ戦を展開するのなら農村をいわゆる解放区化し、ジャングルを転々としながら反撃の機会を待つのが定石のように思われる。
 しかし、クメール・ルージュは自分たちにとって忌むべき「過去」があるはずのアンコール・ワットを本拠地とした。内部からその地を破壊しつつ……。
 いったいなぜか? 一番わかりやすい理屈としてはアンコール・ワットが城塞としての機能を有していたことが挙げられるだろう。写真や図を眺めるとアンコール・ワットの四方は濠で囲まれており、陣地的に有利で守りやすい土地であることが素人目にもわかる。さらに言えば敵側が仏教寺院に銃を向けなければならない心理的効果も加味したはずだ。敵の士気を低下させることを狙ったわけである。
 こう考えていくとクメール・ルージュはきわめて冷淡かつ狡猾な、戦略的判断によってアンコール・ワットを本拠地としたのだという結論になる。なりふり構わなければ本丸など関係がない。たとえそこが切り捨てたい「過去」の総本山だとしても、である。要するにいくさに勝てさえすればいいのだから。
 しかし――しかし、どうしても疑問が残る。というのも彼らクメール・ルージュが立ち上げた新国家、民主カンプチアの国旗のど真ん中に描かれているのもまた、アンコール・ワットだからである。

民主カンプチア(一九七五〜七九年)の国旗

 言うまでもなく国旗に描かれるのはその国のシンボル、その国を象徴する何かだ。例に挙げるまでもないが、アメリカの星条旗もソ連の赤旗も日本の日の丸もまたそうである。そこには何らかの意匠が込められており、だからこそ国旗は抑揚されたり、時に踏みつけられたりもする。意味がありすぎるがゆえに国によっては法的に使用を禁止される旗もある。
 クメール・ルージュは貨幣制度を廃止し、宗教を禁止し、国民を虐殺し、家族制度も破壊して暴力の限りを尽くした。必然的に「過去」を持っている大人は蹂躙され、無垢な――おそろしい言葉だ――子供が重宝された。クメール・ルージュは一切の「過去」を捨て去ることによって自らの理想とする地=ユートピアを無理やり作り出そうとしたのである。そんな彼らが自分たちを象徴するものとしてアンコール・ワットという「過去」の遺物を国旗に描いた。
 ここには何か、相反するアンビバレントな感情が潜んでいるように感じられる。一方では国旗のシンボルとし、片一方ではそのシンボルを完膚なきまでに破壊する……。
 このわかりにくさをどうにか理解したいと思い、いくつかの本を読み、映画やドキュメンタリーも観た。だが、やはりうまく飲み込めずに何年も経つ。納得のいく考えがどうしても浮かばないのだ。
 ひょっとするとこれは今後も咀嚼し続けなければならない重要な問いなのかもしれない。いや、おかしな言い方になるが、噛み続けている間だけは難問に一つの答えが出ているのかもしれない。噛むのをやめた瞬間に問いは新たな問題を作り出し、途方もなく悲劇的な、残虐な方向へと人間を導いていく。どうにもそんな気がしてならない。

 二〇一八年二月、成田発の飛行機に乗り、カンボジアの首都プノンペンに向かった。機内は快適だったが、シーバスリーガルのロックを立て続けに煽っても不安は拭いきれなかった。

カンボジア・プノンペンへ向かう全日空機(成田空港)

 ポル・ポト政権は一九七九年一月、ベトナムの支援で発足したカンプチア救国民族統一戦線(ヘン・サムリン政権)によって崩壊するが、その後続いたのはやはり長い内戦だった。
 一九九三年五月、UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)主導による総選挙で再び立憲君主制国家となったカンボジアだが、これが内戦の終結を意味したとしてもそれからまだ二五年しか経過していない。
 プノンペンでは容易に銃が手に入る。プノンペンは東南アジアで一番治安が悪い――出立前にネットを見るとそんなことが立て続けに書いてあった。夜出歩くなというのはだいたいどの国を調べても出てくる文言だが、銃に関しての注意は初めてだった。
 しかし、無理もないかもしれない。クーデターが頻発するものの独立と王政を長く保ってきたタイと、南北統一を果たし、紆余曲折を経て現在の高度経済成長を手に入れたベトナムという東南アジアの強国二つに挟まれたカンボジアは、ようやく明日への道を築き上げようとしている国なのである。内戦によって荒廃した国を立て直すというのはそう生半可なことではないに違いない。
 だが、そんな感慨と不安を抱きながら降り立った夕方のプノンペン国際空港は意外なことに妙に小綺麗だった。
 大きさという意味では小振りだが、佇まいにどこか慎み深さのようなものがあってスーツケースを引きずりながら外に出てもタクシーの勧誘が驚くほど少ない。SIMカードを購入し、配車アプリのタクシーを待つ間も白タクの運転手に声をかけられたのは一度きりだ。
 ただ、配車アプリも最近導入されたばかりなのだろう。運転手から到着の報せが来たものの困ったことにどこにタクシーが停車しているのかわからない。スマートフォンのアプリには車の現在位置を示すピンが表示されていたが、それがあっちへ行ったりこっちへ来たり、不規則な動きをするのだ。
 夕日の中、仕方なくスマートフォンの画面をにらみながらウロウロしていると横から声をかけられた。二人組の男だった。片方がスマートフォンに耳を当てながら日本名の記された紙をかざして
「お前は××か?」
 と英語で尋ねてくる。
 警戒しながら首を横に振ると彼は困った表情を浮かべて到着ロビーの方へ消えていった。
 残された一人もスマートフォンの画面を見て首をかしげている。紙を用意してきているということは二人ともどこかの旅行代理店の人間だろうか。
 郷に入っては郷に従え――彼に訊いてみようとふと思い、スマートフォンに表示された運転手の電話番号をタップした。
 通話プランに加入しているかどうかわからなかったが、すかさずスマートフォンを男に渡す。わけがわからずに困惑気味だった彼も身振り手振りでわけを説明するとどうやら言わんとすることを理解してくれたようだった。が、何度発信しても相手から応答はない。
 画面を見る限りタクシーがいる位置はかなり近い場所を指している。
 何度か電話をかけてみるうちに男は
「あっ!」
 と声をあげた。彼はスマートフォンに表示された電話番号と自分の持っているスマートフォンに出てきた番号を交互に指差した。
「ああ」
 とこちらも素っ頓狂な声を上げた。何のことはない。この男こそが運転手だったのだ。二人連れだと思ったのは勝手な思い違いで彼はわざわざ到着ロビーまでスマートフォン片手に迎えに来てくれたのである。
 綺麗に整備されたトヨタの四駆に乗り、市内に向かった。ベトナムと比べてバイクが少なくバンコクほど渋滞していない。
「どこから来た?」
 興味津々に外を眺めていたら運転手が英語でそう言った。
「日本からです」
「おお!」
 何に感嘆したのか、かいつまんで理解したところによると彼は日本製品、特に日本車を褒めているらしい。
「トヨタ! ディス・カー!」
 こういったとき、いったいどういう反応をすればいいのだろう? 確かに今乗っている四駆はすこぶる調子がいいらしく快適に道を飛ばしている。トヨタの社員だったら嬉しい気分になるのかもしれない。いや、そもそも気を使われているのか、それとも純粋な気持ちから言ってくれているのか……。
「ビジネスか? 仕事で来たんだろ?」
 逡巡する暇もなく男がそう言った。
「いや、観光で……」
「ほう! いいね」
 ミラー越しに親指を立てる彼に苦笑しながら再び外を眺める。
 目につくのは韓国企業の看板や中国人相手に売られている高層マンションの広告だ。空港付近から街の中心地にあるホテルに行くに従って特にこの中国人相手のマンションがいたるところにあることがわかった。すでに建設済みで入居者を募っている建物もあればまだ建設途中のものもある。褐色の肌の男たちが今まさに汗水垂らして働いている現場もあった。
 やがて人の多いエリアの小道に入り、運転手は車を停止させた。
「はい。三万二千リエル」
 だいたい九〇〇円ぐらいだろうか。彼のスマートフォンにも確かに料金がそう表示されている。だが、支払いはクレジットカード、つまりネット決済で完結するはずだ。「クレジットカード」と連呼してみたが、うまく伝わらない。
 配車アプリの会社に直接電話してみようかとも考えながら何度か身振り手振りを交えて説明すると男は
「あっ」
 と声を出して首を縦に振り、トランクからキャリーバッグを下ろしてそそくさと立ち去った。
 ぼったくろうとしたのだろうか、と思いかけ、すぐに否定する。最後運転席に戻るときに男が首をかしげている姿を目にしたからだ。
 そもそも配車アプリにはドライバーの審査もあり、クレームにもかなり敏感らしい。だからこそ東南アジアを席巻するまでになった。GPSに従って客を拾い、マップに表示されたルートをたどって指定場所に客を降ろす。それに彼はまだ慣れていないだけだ。そもそも彼はロビーまでわざわざ迎えに来て、緊張をほぐそうと軽く会話もしてくれたではないか。あるいはそんな彼の心に免じていくらかのチップが必要だったのだろうか……。
 すでに陽は傾いていたが、たまらなくビールが飲みたいのはきっと暑さのせいに違いない。とりあえずそういうことにしておこう。そう思いながらホテルのレセプションに向かった。

(続く)

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