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「ふるさと」について

私の心にはいつももっと奇妙な感情がつきまとっていて離れないでいる。言ってみれば東京に生れながら東京に生れたという事がどうしても合点出来ない、また言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情である。

小林秀雄「故郷を失った文学」一九三三年

 故郷はどこか、と問われると戸惑う。生まれてからずっと同じ場所に住んでいるか、進学や就職で上京したなら答えるのもたやすい質問だろう。けれど引っ越しを、それもあちこちに数回していると、自分の身の置きどころがどこにあるかわからなくなる。
 生まれた場所を仮に故郷とするなら僕の場合は東京だ。しかし、最初に住んだ家に行ってみたところでそこに懐かしさはない。記憶もほとんどなく、玄関のスチール製の扉が妙に安っぽい出来で、青いペンキで塗られていたことぐらいしか思い出せない。
 成人するまでに一番長く住んだ場所が故郷だとしても、そこに懐かしさはない。今も住んでいる土地だから当たり前だ。おまけにここ数年で景色が変わったから時間に対するノスタルジーはあっても場所への郷愁がまるでわいてこない。
 引っ越しの多かった作家に安岡章太郎という人がいる。高知県高知市で生まれ、東京、千葉、京城(現在のソウル)、青森、そしてまた東京、しかも東京の中でも何度か引っ越しをしている。父親が職業軍人だったから転勤が多かったのだ。岩波書店刊の全集の年譜を読むと、小学校だけで五度も転校している。
 僕はここまで何回も広範囲に渡っての引っ越しをしたことはない。父は転勤族ではなかったし、転校をしたことも一度もなかった。けれど、安岡の年譜を見ていると『流離譚』が書かれた理由もわかってくる気がする。きっと安岡は書くことを通して身の置きどころを見極めようとしていたのだ。
 最終的にその場所は生まれ故郷の高知に設定された。先日、安岡の文学碑が高知県香南市に建てられたばかりだ。墓がどこにあるかは知らないが、彼の文学碑を建てるならやっぱり高知だよな、と思う。

 タイ・バンコク。言わずと知れた、東南アジア屈指の観光都市。
 観光に欠かせないのは拠点となる宿だ。昔はチャイナタウンやカオサンがコストパフォーマンスのいいことで有名だった。二つともバックパッカーの聖地として名高い。
 今やその場所はスクンビット通りのナナかアソークに移ったと言って差し支えないだろう。チャイナタウンとカオサンは近隣にMRT(地下鉄)の駅もBTS(高架鉄道)の駅もなく、交通の便が悪いからだ。
 タクシーやバスがあるじゃないかと思うかもしれないが、タクシーは割高だし、そもそも渋滞がひどい。道路を自由にすり抜けることができる三輪オートのトゥクトゥクもベトナムで言うところのシクロ(人力車)と同じで観光用の乗り物だ。気合いでこなす値段交渉も度々となるとかったるい。
 道端にたむろしているバイクタクシーは道をすり抜け可能で料金も一律だが、いかんせんハードルが高い。掲げてある料金表は当たり前にタイ語だし、言葉が通じるかどうかは未知数だ。そもそも彼らがたむろする場所はごく一部に限られている。
 事程左様に、観光都市バンコクの悩みの一つは交通渋滞ということになるだろう。ただでさえ人口過密なのに世界各国の観光客まで集まるのだから当然である。

歩道橋から(タイ・バンコク)

 この交通渋滞を一番体感できる場所がアソークだ。何せMRTスクンビット駅とBTSアソーク駅が交差し、高層のオフィスビルがあり、大型のショッピングモールもあり、ソイ・カウボーイという世界有数の歓楽街まである。これで人が少ないわけがない。
 僕はもうちょっと東のエリア、駅で言うとオンヌットやバンチャックあたりにいつも宿を取っている。理由は簡単で、比較的交通の便がよく、宿代が安いからだ。
 観光客のいない下町エリアなので静かである。食事も観光地価格ではなく、客引きに声をかけられることもない。安価な屋台が立ち並んでいる横丁があって、美味いガパオライスを出す店や屋台のラーメン屋があり、レートのいい両替所もある。

ガパオライスと目玉焼き。四五バーツ(タイ・バンコク)

 いる人も素朴だ。どの店の人間も愛想がよく、人懐っこい。かと言って押しつけがましくもない。つかず離れずという感じである。地元で商売を続けるとは要するにこういうことなのだろう。一期一会の人間ばかりを相手にするのとはわけが違う。
 そんな場所から当てもなく遠出する気になると、とりあえずアソーク方面へ出ることになる。
 言うまでもなく、バンコクは暑い。蒸し暑い。歩き始めて数十秒もすると首の後ろに汗が吹き出てくる。すぐにへばってセブンイレブンに寄り、小瓶のレッドブルか、紙パックのオレンジジュース、もしくはやけに甘い味の緑茶でのどを潤す。
 店の前で一服しながら、電車で行こうかバスにしようか考える。電車は冷房が効いているからいいが、クーラーなしのバスの熱気は中々のものだ。開けた窓から吹きつけるのは熱風と排気ガスである。

クーラのないバス。クーラー付きはちょっとお高め(タイ・バンコク)

 それでもバスに乗ってしまう。八バーツしかかからないから決断が早い。コインの入った銀色の筒をジャラジャラ言わせている車掌のおばさんの無愛想も慣れると風情が感じられる。流れる街の景色や入れ替わる乗客たちを眺めていると、わりとすぐに時間が経つ。
 問題はその後だ。アソークの手前でバスがちっとも動かなくなる。
 歩道を行く人が悠然と歩いている。露天売りの宝くじを眺めている人がいる。ひっぺ返された道路の敷石が目につく。バスの振動音が耳に伝わってくる。排気ガスの臭気が車内に充満する。
 ここに来て、妙な焦りが生まれてくる。閉じ込められているわけでもないし、急ぐ必要もないのにやけに息苦しくなってくる。
(ぶらぶらしに来ただけだろ?)
 そう自分に問いかけてみる。それでも待ちきれずにバスを降り、歩き出してから後悔する。
(ああ、また待てなかった。暑い。やっちまった……)
 人並みに紛れてアソークにたどり着く。歩いたのはたかだか数分だが、頭がくらくらする。身体の内側が熱を持っているのがわかる。
 そのまま歩き続けていると、周囲にいる人がみんな目的を持って移動しているように感じられてくる。こちらは確固とした目的のないまま出てきたから急に不安に襲われる。
(バンコクまで来て何やってんだ?)
 悪い癖が出たと頭の隅で思う。せっかくの気ままな旅だ。目的がないのを楽しむべきなのに、目的を探そうと躍起になっている自分に気がつく。
 のどが渇いた。座ってコーラでも飲みながら計画を立てよう――そうやって無理やり目的を作り出し、ショッピングモールに足を踏み入れる。
 真っ先に体感するのが驚くほどの涼しさだ。汗は一瞬で引く。文明の利器に感謝し、入り口の警備員の男に頭を下げたい気持ちまでわいてくる。そして、ツンと来るエアコンのカビ臭さ。
 マクドナルドでポテトとコーラを身体に流し込んでも、柄にもないウィンドウショッピングをしてみても、家電屋でバーツと円の為替相場を計算しても、一度気がつくとその臭いがついて回る。
 一見かなり整備されているし、清掃の行き届いた場所なのだが、空調設備まで年中完璧というわけにはいかないのだろう。そもそもバンコクはずっと真夏だ。雨が降っても蒸すだけである。エアコンを停めて清掃するにもスケジューリングが難しい。
 タイではエアコンの設定温度が低ければ低いほど美徳なのか、いずれの施設も少し寒い。土産物屋でよく売っているタイパンツを僕が履かず、どれだけ暑くてもシャツを一枚羽織り、ジーパンを履く理由は観光客然としたくないからだけではない。暑さと両極端にある急激な冷えも体感してしまうからである。

夜のカオサンロード(タイ・バンコク)

 あのエアコンのカビ臭さは小学校の職員室を想起させる。係の仕事か何かでクラスメイトと訪れた職員室は驚くほど涼しかった。思わず目を閉じ、全身に冷気を染み込ませようとしてしまう。担任の先生はそれを見て、時に呆れたり、苦笑したり、無視して事務的な話をしだしたりした。外ではセミの声がすでに聞こえ始めている。
 教室は蒸し風呂の暑さだ。下敷きが本来の用途ではなく、うちわとして使われている。ピョコピョコという奇怪な音が教室中に響く。
 下敷きで顔をあおぎながら、ふと校庭を見下ろす。乾ききった白い土とサッカーのゴールポストが太陽の光を反射している。
 もうすぐ夏休みだ、と思う。塾の夏期講習は憂鬱だが、家族で海に行くのは楽しみだった。
 一緒の係だったクラスメイトは今どこで何をしているだろう? 育ちのいい、礼儀正しい男で、職員室に入るときの作法は彼に任せっきりだった。仲もよかったが、記憶の中で横を向いてみても彼は何も答えない。
 そのクラスメイトは私立の進学校に行き、僕はそのまま公立中学に入った。大学時代まで交流があった。東日本大震災の後、サシで飲んだ記憶もある。大学四年生の頃にメールをやり取りした記憶もある。それっきりだ。向こうもその後こちらがどうなっているか知らないだろう。
 それでいい、と思う。知らなくていいことも往々にしてある。
 それにしても外国人が、バンコクのど真ん中のショッピングモールで、小学生の頃を思い出しているとは誰も思うまい。

 結局、塾は中学で通わなくなった。それ以前に中学に行けなくなった。家族で海に行ったのは中学が最後だ。
 そういえば中学生の頃、それでは社会でやっていけないと大人によく叱られた。そのたびにうんざりして、心細くなって、焦りと不安で血の気が引いて、すべてを放り出してどこか遠くへ行きたくなった。
 そこでならうまくやっていけるのにと思っていた。見知らぬ土地にこそ自分を受け容れてくれる人がいると感じていた。
 甘い幻想だろうか。幼稚だったのだろうか。地に足がついていないのか。世間知らずのガキの戯言か。
 室生犀星の有名な詩が頭に浮かぶ。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

室生犀星「小景異情(その二)」

 犀星の故郷は石川県金沢市である。とすると、この詩は金沢への郷愁を詠んだもののように思えるが、実は違う。詩はこう続く。

よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや

 ここまで読んで、郷愁との訣別の詩なのかと一瞬思わされる。自分は今「ふるさと」にいるが「帰るところ」ではなかったと痛感し、後悔している詩なのか、と。しかし、事はそう単純ではない。続きはこうだ。

ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 彼は今どこにいるのだろう? 「ふるさと」にいるのか? それでもなお「ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころ」を持って「みやこ」に帰りたいものだ、という心情を書いているのか?
 定説が何なのかは寡聞にして知らない。詩の鑑賞法もわからない。ただ、この「都」と「みやこ」に「ふるさと」とはまったく異なる場所という意味が込められていることは確かである。
 さらに言えば、この「都」と「みやこ」は特定の場所を指しているのではなく、抽象的な意味合いの、代替可能な地としての「異土」を指しているのではないだろうか。漢字とひらがなで表記をいちいち使い分けているのがその証拠だ。
 そして、それは「ふるさと」も同じなのではないだろうか、と思う。いや、抽象的とはいえ「異土」は実在する場所ではある。だが、僕にはそれ以上のものが「ふるさと」に込められているように思えるのだ。この「ふるさと」は犀星の実際の故郷(金沢)ではなく、他の現実の場所でもなく、観念的な、彼の心の中にだけ存在する憧れの地としての、ここではないどこか、を意味するのではないかと感じるのである。
 つまり、冒頭の「ふるさと」も具体性のある、特定の場所を指しているわけではない。再び引用をして解釈を付け足してみる。
《ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの》
 憧れの「ふるさと」=ここではないどこかは、その憧れから遠く離れた地にいて想うものである。そして、悲しみを持ってそれを歌うものだ。
《よしや/うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても/帰るところにあるまじや》
 たとえ憧れの「ふるさと」=ここではないどこかから遠い地である「異土」で落ちぶれて乞食になっても、願望に過ぎない「ふるさと」=ここではないどこかは帰る場所にはなりえないだろう。
《ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて/遠きみやこにかへらばや/遠きみやこにかへらばや》
 それでも、そんな憧れから遠い地としての「異土」の夕暮れで心の中の憧れの「ふるさと」=ここではないどこかを想って涙してしまう。そんな心を持って、憧れからはほど遠い地である「異土」に帰りたいものだ。帰りたいものだ。
 これが僕の解釈である。
 繰り返すが、「異土」は実在する。むしろ悲しいことに、実際に帰ることのできる場所は「異土」しかありえないのだ。この詩もつまりはその時々の「異土」で書いたのだろう。
 しかし、「ふるさと」は犀星の心の中にしか存在しない。そこはここではないどこかであって、金沢でもなければ実在の土地でもないのだ。その地を求める気持ちを持つことはできても実際に赴くことや住むことは絶対に不可能なのである。
 だから、この詩には郷愁も存在しない。あるのは郷愁を希求する心だ。
 確かに彼にとって金沢は生まれ故郷であり、若き日に出奔した「異土」ではあったが、「ふるさと」ではなかった。
 それを犀星は十分理解していたのだろう。肥大化する憧れを自覚していたのだろう。遠くにあってこその憧れであり、近づいてくればそれは「ふるさと」でも何でもなくなってしまう。
 彼は憧れの「ふるさと」とはかけ離れた、現実としての「異土」にいながら、そんな憧れの地としての「ふるさと」を望む感覚そのもの、ここではないどこかへの強い希求を書きつけたのである。

 犀星と比べれば自分はまだまだだ、と思わざるを得ない。実在の「ふるさと」がどこかにあるという淡い期待を捨てきれないからである。
 この甘さが、地に足のつかない状態を作り出し、僕を方々へ旅立たせるのかもしれない。どこへも行けない状況が続けば続くほど、その思いは強まるばかりである。

(了)

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