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逆さの旗(二)

 通されたのは狭い個室だった。壁掛けのテレビはあるものの窓がなくスーツケースを広げるスペースもない。
 ドレッサーにセキュリティボックスが置かれていた。これがあるとないとでは安心感が違う。が、英語で書かれた手引書を読んでもうまく操作できなかった。どうやら故障しているようだ。レセプションに行き、受付の女にその旨を伝えると拙い英語がおかしかったのかそばにいたボーイが馬鹿にするように笑った。女はデスクの上にあるパソコンをいじりながら平然とした口調で答えた。
「上の階の部屋のと交換して」
「自分で?」
「ええ、自分で」
「勝手に入っていいの?」
「大丈夫。誰も泊まってないから」
 上の階に行き、掃除婦の冷ややかな視線を浴びながらセキュリティボックスを自分の部屋のものと交換した。上階のセキュリティボックスは正常に動作した。パスポートといくばくかの日本円が入った財布を中にしまう。
 レセプションに再度出向き、そのことを女に報告すると
「そう。そりゃよかった」
 と彼女はこともなげに言った。
 不思議なことに腹は立たなかった。いや、半笑いのボーイにはイラ立ったが、これぐらい自由が利く方がいいし、そもそも五つ星ホテルに泊まっているわけではないのだ。女の口調もさっぱりしているだけで嫌味ではなかった。大事なのは問題を解決してくれるかどうかだ。そういった意味ではむしろこの女は有能そうに見えた。手取り足取り何かと気にかけて部屋に電話までかけてくる豪奢なホテルより気持ちが楽ということもある。
 その日僕はピザ屋に入って簡単に食事を済ませるとすぐホテルに戻って眠った。

ホテル近くのピザ屋から(カンボジア・プノンペン)

 翌日シャワーを浴びてからホテルを出て配車アプリでバイクを呼んだ。チュンエク大量虐殺センター、別名キリング・フィールドに早速向かうつもりだった。が、どういうわけかなかなかバイクが見つからない。
 盲点だった。ただのタクシーは何台か見当たるが、バイクとなるとほんの数台しかない。複数のアプリを駆使して客の取り合いまでするベトナムとはえらい違いだ。
 ホテルの前にはトゥクトゥクが数台停まっていた。おそらくこのホテルを根城にしている運転手がいることだろう。間違いなく観光客慣れしているはずだ。
 しかし、何となく気が進まなかった。値段交渉は必至だし、いくらが相場かもわからないからだ。オプションで余計な観光ツアーでも付けられたら面倒である。それに自分が急ぎすぎている気がしないでもない。
 焦る必要はないと自らに言い聞かせ、トゥクトゥクを眺めながら立て続けにタバコを二本吸うとようやくアプリに通知があった。
 寡黙な運転手のバイクタクシーにまたがって一〇分くらいだろうか、市街地を抜けると目の前に広大な田園風景が広がった。都会と田舎の境界線が近い。しかし、よく眺めてみるとマンションの建設予定地のような場所もある。
 やがてキリング・フィールドの入り口に到着し、ヘルメットを脱いで礼を言った。空港からホテルまで乗ったタクシーとは違い、運転手の男は決済方法を熟知していた。
「帰りも乗るか?」
 ボソリ、という感じで男が言った。いずれ帰るには帰るのだが、いったいどれくらいここにいるかわからない。三〇分かもしれないし、一時間、いや、もっとかもしれない。何せここに来るためにカンボジアに来たようなものなのだ。
 首を横に振ると男はそれですべてを理解し、来た道を颯爽と戻っていった。
 門の横を通ってチケットカウンターに行き、入場料の六ドルを払って中に入ると日本語のパンフレットと音声ガイダンス用の機器を手渡された。入り口近くに立っている看板によれば日本語の他にもクメール語、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、スペイン語、ロシア語、スウェーデン語、タイ語、マレー語、ベトナム語とかなり多言語のガイダンスがある。

チュンエク大量虐殺センター。通称キリング・フィールド
入り口にある看板
慰霊塔

 音声ガイダンスの日本語は思っていたよりも流暢だった。文法もおかしくない。ヘッドフォンから流れる音声を聞きながら一つの看板の前に立ち、解説を聴く。
「さて、ここはみなさんにとっては今回の旅の出発点ですが、彼らにとっては長い旅の終着駅でした……」

音声ガイダンスを聴きながら歩く

 キリング・フィールドはカンボジア各地に点在する処刑場の総称である。そのうちの一つがプノンペンの南西約一二キロの位置にあるチュンエク村に存在する。ここで殺されたのはプノンペンのトゥール・スレン収容所、通称S21から連れてこられた人々だ。
『検証・カンボジア大虐殺』によれば処刑方法は「きまって鉄棒による撲殺だった」。本人に穴掘りをさせて目隠しをし、そのふちにしゃがませてから首に一撃を見舞う。「きわめて簡単に、ほとんど音もなく、流れ作業で殺人はすすめられた」。
 処刑場跡で掘り起こされた骸骨の山を目にして本多勝一はこう述べている。

この光景は、何と形容したらいいのだろう。私はこれまでに、あるいはベトナムの戦場で、あるいはカンボジアの国境戦争で、さまざまな虐殺現場や死体の散乱する前線を見てきた。中国でも、日本軍による集団殺戮さつりくの跡で骨を掘った。そうしたときの感慨とは、これは異なる。もっと無機的で、もっと絶望的なものを、累々たる骸骨の彼方に感ずる。

本多勝一『検証・カンボジア大虐殺』一九八九年

 本に掲載されている写真は確かに「無機的」である。理知は無論のこと、人間の情緒もまるで感じられない。ボタン一つで動作する機械に巻き込まれたかのように、まさに「流れ作業」的に彼らは殺された。
 他方でまったく「流れ作業」的ではない写真も本には収められている。カンボジア国境に近いベトナム南西端ハティエンのミイドゥク村で虐殺された死体の写真だ。ハティエンは川に食い込むような形をした土地であり、かつてはカンボジアの領域だった。殺されたのはベトナム民族が主だが、中にはクメール系民族もいた。
『検証・カンボジア大虐殺』には様々な資料が掲載されているが、ミイドゥク村の虐殺現場の写真は筆舌に尽くしがたい、あまりにも衝撃的な内容を含んでいる。ベトナム戦争の最前線で数多くの死体を見てきた本多は「こんな恐ろしい光景は初めてだ」と述べた上でこう書き残している。

ざっと数えて二十数人。刃物による刺殺や鈍器による撲殺らしい。腹を裂かれて腸がとびだしたり、頭が割れていたり。しかし最もひどい状況は、着物をはがれた女性らの局部に棒キレや杭が突き刺されていることだ。女性の死体のほとんどがそうされている。

本多勝一『検証・カンボジア大虐殺』一九八九年

 一瞬僕は「狂気」という言葉を連想し、その言葉をここに書きつけようした。しかし、それは何か違う気がする。「狂気」の向こう側に人間を押しやり、突き放すのは思考の放棄だ。
 写真から感じるのは猛烈な恨みだった。自分を踏みつけた存在を、自分とは対岸にいる人間を、完膚なきまでに蹂躙してやりたいという恨みの気持ちである。
 そんな感情を覚えたことがない人は幸せだなどと言うつもりはない。確かに危険な感情である。だが、そうした類の恨みの気持ち抜きで何かを語ろうとすることが僕にはできない。
 ――「あいつ」を殺したい。ふざけるな。俺をこんな人間にした奴を地獄の底に落としたい。「あいつ」に最大級の屈辱を味わってほしい。すべてを後悔して息絶えてほしい。なるべく残虐な、残酷な手段で……。
 世の中を見渡せば容易にこの種の怨恨や殺意は見つかるはずだ。内発的な、内向的な殺意は世にあふれかえっている。そのうちのいくつかが暴発し、実行に移されるのだろう。
 そんなのっぴきならない感情を何とか抑えつつ、自傷や他害へ向かわずに日々をやり過ごしている人を僕は否定する気になれない。いや、人間の内側にそういった殺意が秘められていることを認めてからでなければ博愛を説くことも決してできはしないはずである。
 問題はこの「あいつ」が簡単に「あいつら」に転化することだろう。誰かが「あいつ」と思ったとき、そこには主体と「あいつ」という客体、つまり特定個人の一対一の関係が成立する。
 しかし、こうなるとしばしばカテゴリー化が行われる。たとえば「あいつは××人だ」「あいつは××教を信じている」「あいつは××の出身」といった、不均衡さをかんがみない分類を通し、「あいつ」という固有名詞を持つ存在は不特定多数の「あいつら」の中の一人にいつの間にか変貌してしまうのである。特定の個人である「あいつ」に向けていたはずの怨恨がすげ替えられ、拡大解釈されて、恨みが向かう対象自体も変わるのだ。
 たとえば僕個人をひどく恨み、憎んでいる人間が存在したとする。これだけ生きていればきっといる。その人が恨みのあまり僕を撲殺したらそれは一対一の関係性における殺人である。彼にとって僕は特定の憎き「あいつ」だ。
 しかし、僕個人が持つ属性、性別や人種、民族、国籍、宗教などを理由に誰かが僕を殴り殺したとしたらそれはもはや一対一の関係ではなくなる。彼にとって僕は不特定多数の「あいつら」の中の一人になるからである。
 これは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという話とは異なる。なぜなら「あいつ」が「あいつら」に変化した時点で「あいつ」という概念は萎んで小さくなるか、消滅してしまうからだ。坊主ではなく袈裟が憎しみの主たる存在となり、坊主はわきへ追いやられ、やがては死滅する。つまり「あいつ」はあくまでも「あいつら」の一員に過ぎなくなる。主体の心の中には「あいつら」という不特定多数の、漠然とした恨みの対象が残るだけで、さっきまで確固としてそこにいたはずの特定の個人(「あいつ」)の存在は薄れるか、その場からいなくなるのである。
 このとき、固有名詞を持つ主体もカテゴリー化を避けられないのが実に厄介だ。「俺は××人」「私は××教」「僕は××出身」と自らを優位に、あるいは恣意的に劣位に置いて――それは要するにマウンティングであり、一種の優位だが――「あいつら」と対峙しようとしてしまうのである。
 そこには特定の「あいつ」がいないのと同じで主体としての「私」もいない。つまり本来代替不可能なはずの、この世にたった一人の自己もいなくなる。
 代わりに出てくるのが「私たち」という概念である。そうなれば一対一の関係もへったくれもない。「私たち」と「あいつら」という図式だけが残ってしまうだけである。
 これに拍車がかかり、集団を相手にして計画的かつ組織的に殺人が行われればそれは「ジェノサイド」(集団殺害、大量虐殺)だ。第二次世界大戦終結後の一九四八年、国連で採択された「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」の第二条ではジェノサイドを以下のように定義している。

 この条約では、集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもつて行われた次の行為のいずれをも意味する。
(a) 集団構成員を殺すこと。
(b) 集団構成員に対して重大な肉体的又は精神的な危害を加えること。
(c) 全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。
(d) 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。
(e) 集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)

 この定義に照らし合わるとミイドゥク村でのクメール・ルージュの行いはまず間違いなくジェノサイドである。彼らは村に住むベトナム民族を根絶やしにしようとしたからだ。そして、その殺戮行為の根源には相手を人とも思わなくなってしまう猛烈な恨みがこもっている。
 この恨みの根本が何なのか、はっきりとはわからない。インドシナ半島の歴史を紐解くか、かつて隆盛を誇ったクメール王朝の時代にまでさかのぼらなければきっと解剖はままならないだろう。
 ただこれだけはわかる。クメール・ルージュはミイドゥク村に住むベトナム民族を「あいつら」と見なした。そうでなければ『検証・カンボジア大虐殺』に掲載されている写真のような行為ができるはずがないからだ。そこには一対一の関係性などない。いや、もはや関係性という概念そのものが消滅している……。
 一方、プノンペン近郊で起きたチュンエク村での大量処刑はジェノサイドと呼べるだろうか?
 先に挙げた条約では「国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図」を持って行う行為がジェノサイドであると定義している。裏を返せばその「意図」がなければいくら人間を殺そうと狭義の意味におけるジェノサイドとは呼べないということだ。
 いきなりこんなことを言い出したのには理由がある。二〇一八年、国連が支援する法廷でクメール・ルージュの幹部、ヌオン・チアとキュー・サムファンが大量虐殺の罪で終身刑の有罪判決を受けた。だが、実はそれまで彼らは「人道に対する罪」で訴追されるだけで大量虐殺の罪には問われていなかった。BBCの報道にあるように「クメール・ルージュ政権によるカンボジア国民の殺害は国際的な大量虐殺の定義に当てはまらない」とされたからだ(BBC「クメール・ルージュ指導者に有罪判決、大量虐殺の罪では初 カンボジア」二〇一八年一一月一六日、https://www.bbc.com/japanese/46231709)。 報道を読めばわかるが、二〇一八年の判決でもヌオン・チアは「チャム族とヴェトナム系カンボジア人を抹殺する目的での大量虐殺」、キュー・サムファンも「ヴェトナム系民族に対する大量虐殺」で有罪となっており、カンボジアで一番多い民族であるクメール人への大量処刑行為では裁かれていない。国際法上で言うところのジェノサイドは実はきわめて狭義的なのだ。事実、この限定的な法的基準にはすでに批判がある(ナショナル・ジオグラフィック「ジェノサイドの認定はなぜ難しいのか、その定義と大量虐殺史 写真19点」二〇二二年四月二二日、https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/22/042200028)。
 僕は法律家でも何でもない。ましてや国際法に対して云々できる立場でもない。しかし、ジェノサイド条約の基準については何かしらの更新の必要性を強く感じる。チュンエク村で起きた処刑、ひいてはクメール人への大量処刑もジェノサイドに当てはまるだろうと思うからだ。
 国連で採択された条文の「国民的、人種的、民族的又は宗教的」という言葉は、大きく解釈するならば、峻別を行ってその集団を定義づける、つまりカテゴリー化によって集団を分け、線引きするということだ。
 先に述べたようにクメール・ルージュは自らを「オンカー」と称して絶対化した。要するに「オンカー」は「私たち」であり、国民は、特に「新人民」は「あいつら」である。そうなるとそこで行われた一方的な大量殺人もやはりジェノサイド以外の何ものでもないのではないか?

 あのバイクタクシーのドライバーに帰路を頼まなかったのは正解だった。チュンエク大量虐殺センターには一時間どころか、たっぷり二時間以上もいることになったからだ。
 各ポイントを眺めては顔をそむけそうになり、休み休み前進した。地面を掘れば未だに人骨や衣類が出てくる場所や幼児を打ち付けて殺した樹木、処刑される人の叫び声を消すために大音量で革命歌を流すスピーカーを設置した木……。

ここで四五〇人分の骨と遺体が見つかった
頭部のない骨と遺体もあった
掘ると今でも衣服が出てくる
この集団墓地には一〇〇人以上の子供と女性が埋められており、彼らのほとんどは裸だった
幼児を打ちつけて殺すための樹木。通称キリング・ツリー
比較的新しく掘られた様子の骨
一九八〇年の発掘調査後に残った骨片
歯の付いた頭蓋骨のかけら
「この木は死刑執行中の犠牲者のうめき声を避けるため音を大きくする拡声器を吊るす道具として使われた」と書いてある
犠牲者の断末魔をかき消すために流していたのは革命歌だった

 最後に見たのは大量の頭蓋骨が安置されている慰霊塔だった。建物に入る前、白人の若い男と入れ違いになり、彼と目が合った。男は苦笑しながら顔を伏せて頭を振った。それは彼なりのメッセージだった――「おい。覚悟して見なよ。ぶったまげるぜ」。
 衝撃を受けた、と書けば嘘になる。なぜなら頭蓋骨の数があまりにも多すぎて現実味がなく虚構の世界に迷い込んだ錯覚を起こしたからだ。

 本物なのか、と馬鹿みたいな疑問が頭に浮かんだ。ここで虐殺があったのは事実だが、この頭蓋骨は本物を模したレプリカなのではないかと思ってしまったのだ。
 明らかに防衛本能が働いていた。こうでも思わなければその場で取り乱していたかもしれない。時間をかけてまじまじと骨を見るうちに徐々に感覚が戻ってきた。
 骨は本物だった。これが現実なのだ。人は人をここまで追いつめることができるのだ。現実に彼らはここで嬲られ、尊厳を剥奪され、惨殺された……。
 確かにこの頭蓋骨たちは「流れ作業」的に殺された。だが、決して彼らは工場の部品ではない。同じ方法で殺されたとしても誰一人同じ人生を歩んでなどいないのだ。
 こうして数々の頭蓋骨を目の前にしただけでそれぞれに個性があることが見て取れた。当たり前だが、大きいものもあれば小さいものもある。骨の形は実に様々だ。
 苦楽のある人生の機微が背後に見えてくる。一人一人の生き様を想像してみたくもなる。目の前に広がる光景とは裏腹に、確かにこの世にあった存在を讃えたくなる。
 彼らがどうやって死んだのか、それはカンボジア国民の手によって解剖されつつある。また、そうすべきだとも思う。しかし、一人一人がどんな生を生きたのか――そんなことに僕のような部外者が思いを馳せてもいいはずだ。
 頭蓋骨に対して恐怖は感じなかった。嫌悪もなかった。何かに祈りたい気持ちだけが湧いた。

(続く)

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