『フナムシ』
フナムシには、ちょっとした思い出がある。
あれは中学3年生の春。
たしか桜が散り始めた頃。
教室にはやわらかな陽が差し込み、
クラスの女子達はのぼせたように桜の花びらを集めては、弄んでいる。
それをぼんやり眺めながらお弁当を食べ終えると、わたしはいつものように保健室へと向かった。5限目は、社会科の授業だったから。
社会の座布団先生は(あ、それはわたしが勝手につけたあだ名で、正式には田所先生と言うんだけれども)
座布団先生は、「日本の教育は駄目だ」と、四角い顔で熱弁し、毎回、グループでディスカッションをさせた。
学校のなか、クラスのなかに、友人と呼べる人間が(これは誇張ではなくて)1人もいないわたしにとって、座布団の授業は拷問でしかなかった。
その日、なぜか保健室は閉まっていた。
行き場をなくしたわたしは、ふいに、音楽準備室に忍び込むことを思いついた。たぶん、春の陽気に惑わされて。
音楽室のとなり、音楽準備室。
たくさんの楽器が眠る部屋。
そこは普段、合唱部の部室として使われていた。誰にも見つからないよう、こっそりと扉を開ける。暖かい部屋に、埃がキラキラと舞った。
マリンバ、ティンパニー、棚からのぞくアコーディオン。ずらりと並んだ黒いケースの一つを開けてみると、トランペットが顔を出した。
押し黙ったような楽器たちは、ついさっきまでお喋りをしていたのかもしれない。
わたしは想像してみた。
そこにある楽器たちが、目を覚ますところを。
ティンパニーがはじまりの合図を告げ、マリンバが軽やかに踊り出す。
アコーディオンはヘラヘラとやってきて、ケースに入った仲間を起こす。
次々と飛び出すトランペット、フルート、ホルン、クラリネット。
そして、息を合わせた楽器たちが、突如始めるミュージカル。
楽器たちに促され、ステージに導かれ、わたしは歌う。明日の唄を。
いつもひとり、両親にも聞こえないようにひっそりと、お風呂場でうたう、わたしだけの唄を。
♪明日を歌えば、明日は笑う
明日を嘆けば、明日は…
ガラッと扉の開く音がして、現実に引き戻された。
後ろに立っていたのは、魔女先生だった。
(魔女、というのは、わたしが勝手につけたあだ名で、正式には、音楽の、小玉先生という。)
魔女先生は、わたしの不法侵入を咎めることはせず、
「ムラマツさん、合唱部、入る?」
と、予想外の問いかけをした。
わたしは慌てて首をふった。
受験なんで、と嘘をついた。
合唱部? まさかまさか、わたしなんかが入れるところじゃない。入学して間もないころ、部活動紹介の発表で合唱部の歌を聞いたとき、思い知ったのだから。
合唱部の先輩たちは、流行のJ−POPを華やかに歌っていた。
人前で歌う人は、なんて眩しいんだろうと思った。
今、そこに立っていること、
そこで息をすること、
生きていること、を祝福されている。
目の前のすべての観客に、世界に、神様に。
(世界に愛される人だけがこうして歌えるのだ。)
歌は、ほんのすこし好きだったけど、
わたしには、人前で歌う資格がない。
そう、突きつけられた気がして、
そのたった5分の発表に、少し泣いたのを覚えている。
魔女先生は、わたしが返答したのにも関わらず、じっとこちらを見ていた。
やばい。魔女との対峙だ。逃げなくては。
頭の中にはRPGの魔女との遭遇っぽい音楽が流れ、
「逃」という明朝体の文字がポコポコ量産され続けているのに、魔女が目をそらさないもんだから、そこから立ち去れずにいた。
“どこどこどこ!” “音楽室!” “いや、誰もいない!” “あ、こっちに人いた、小玉!”
騒がしい足音に、魔女とわたしの妙な時間はかき消された。
授業中にも関わらず突如現れたのは、同学年のオカモトくんとキシタニくんだった。
オカモトくんはサッカー部、キシタニくんはバレー部、二人とも、やんちゃだからか、顔の造形ゆえか、女子に人気のある2人。
クスクスと、こらえきれない笑いを携えて、
「せんせい、せんせい、あっち。」
とオカモトくんは、魔女に後ろを向くよう促した。わたしのことは視界に入れていないようだった。
なあに、と、少し後ろを向いた魔女先生に向かって、
オカモトくんは、何かがぎっしりつまったビニール袋をひっくり返した。
バラバラと黒い小さなものが魔女先生の肩から滑り落ち、部屋の四方八方にちらばっていく。
ひゃ!
わたしは腰が落ち、魔女先生も悲鳴をあげた。
それは、大量のフナムシだった。
袋から解放されたフナムシたちは部屋の中を縦横無尽にかけまわり、磯の香りがぶわりと漂った。
いつの間にかまんまと逃げおおせたキシタニくんとはうらはらに、気がつくと、オカモトくんは、魔女先生に右腕をつかまれていた。
魔女先生は、何も言わず、ただオカモトくんの目をじっと見た。
よほど魔女の目が怖かったんだろう。捕らえられたオカモトくんは、いつもの快活で自信に満ちたオーラはしぼみ、魔女から目をそらした。
そして一瞬、わたしと目があった。
(オカモトくんって、おうちで怒られたりしたら、こういう顔するのかなあ。)
わたしは、オカモトくんの、その、バツの悪そうな顔を見上げながら、
なぜかドキドキした。
オカモトくんの裸を見てしまったような気持ちになって。
その顔は、セクシイだな、と思った。
スカートのまわりで蠢いていたフナムシたちは、するするとわたしの太ももを這って奥へ奥へと進んできた。何匹かは下着の中まで入った。
気持ち悪いはずなのに、それには抵抗しないまま、わたしはずっと、オカモトくんを見ていた。
その日以来、わたしはフナムシに妙な親近感を覚えてしまった。
■
東京の大学に進学してから、フナムシを見ることはなくなった。
大きく環境が変わればわたしの性質も根こそぎ変わったりしないかしらと淡い期待をしたけれど、何も変化は訪れず、人が溢れる東京で、わたしは余計にひとりぼっちだった。
しかし、ある処世術を身につけたのだ。
それは「旅をすること」。まあ、よくある話なのだが。わたしにとっては大発明、といった気分だった。
旅先では、常に、この先どうするか、を考える。次の町までどうやって行こうか、このタクシーに乗っても大丈夫か、国境を超えるかどうか、とか、慣れない土地では分からないことが多すぎて、今日考えるべき宿題が山積みだ。
旅から帰ると、不安でたまらなくなって、また、次の旅先を考えた。
お金を貯める計画をして、その国の治安を調べ、どんな準備が必要かを調べ、その土地で何をしようか、毎日想像する。そしてまた、旅へ出る。
そんな生活を繰り返していけば、わたしは、わたしについて思い悩まずやり過ごすことができた。わたしが生きていくには旅が必要だった。
大学4年間で旅した国は60カ国を超えた。といっても旅人では食べていけないので、わたしはそのまま旅行会社に就職をした。
学生のときと変わらず、旅の計画をして、年に何度かの休みに、旅をした。
ある日、私が勤める旅行会社のカウンターに、キャップを深くかぶった男性がやってきた。
ヨーロッパを旅行したいというその男性にいくつかのツアーを説明しながら、わたしは、彼に対して、平等に接客していますよ、という態度を示すことに必死だった。
なぜなら、その男性には右腕がなかったから。
男性は、行き先を慎重に選ぶのかと思いきや、その場でスペイン周辺をまわるツアーを申し込んだ。1人で海外旅行に行って大丈夫なのか、肌が浅黒いのは何かスポーツをやっていたのか、腕は、どうして? など、申し込み用紙のはしをわずかな右腕で押さえる男に、興味がつきなかった。
左手でゆっくりと書かれた名前を目にして、わたしはそのまま、オカモトツバサ、と、読み上げてしまった。
男性が反応したので、あ、ごめんなさい、中学に、同姓同名の同級生がいて、つい。と、慌てて弁解をすると、
男は興味なさそうに、でも、慣れた間合いで、へえ、出身どちらなんですか、と聞いてきた。この人、モテそう、と思った。
わたしが出身地を答えると、あれ?じゃあ中学は?と今度は少し真面目に尋ねられた。
月ノ原中学です。
男は、わたしを見た。それは、どこかで見たことのある目。いつか音楽準備室で見上げた、バツの悪そうな、オカモトくんの目だった。
■
個人情報保護法とやらを盛大に無視して、オカモトくんに思い切って連絡をしたのは、それから、三週間後のこと。
そんな大胆なことをするのは、あとにも先にもこのときだけだろうと思う。オカモトくんは、当たり前だけど中学の頃のわたしなんて覚えていなくて、そして、中学時代の話もしようとはしなかった。どちらも、わたしにとっては都合が良かった。
わたしたちは、何度か会った。
オカモトくんとはじめてセックスをしたとき、それは文字通りわたしにとって初めて、になるわけなのだけれども、オカモトくんはごめん、と、何度もわたしに謝った。
謝りながら、自分に苛立っているようだった。
腕がこうなってから、したの、初めてで。
言い訳するようにオカモトくんは付け加えた。
わたしこそ、ホテルに来たのだって初めてだし、正真正銘これが初めてなのです、などとネタバラしはせず、大丈夫だよ。ぜんぜん。
と、言って、普通の女の人を、装った。
ホテルのTVでは、旅番組をやっていた。わたしたちの地元がうつり、
2人で「あ」と声をあわせた。
タレントは、潮風が気持ちいいですねえ!とはしゃいでいる。
お盆って、帰る?
何気なく聞いてみた。わたしは、何年も帰っていない。
「最近、帰ってないんだよな。恥ずかしいわけじゃないけど、これを見て心配させるのは申し訳なくて。」
短い右腕をちょいとあげて、オカモトくんは答えた。
でも、“じゃないけど”と、前置くときは、みんなそれが一番の理由なのだとわたしは知っている。
自慢じゃないけど、嫌味じゃないけど、怒っているわけじゃないけど。
オカモトくんは、恥ずかしいんだろうなあ、と思った。
そりゃあそうだ、あんなに格好よかった人だもの。あ、もちろん今でもかっこいいんだけれど。わたしには、到底分からない、守らなくちゃいけないかっこ良さっていうものがあるんだろう。
オカモトくんの腕。あの町の、ほとんどの人が知らないオカモトくんの腕。
その途切れた右腕が、たまらなく愛おしいものに思えて、わたしは小さく、口づけをした。
それからも、わたしはたまにオカモトくんに会い、オカモトくんの腕に口づけをして、オカモトくんに靴下をはかせてあげた。
オカモトくんは、何度目かのセックスで、「わりと大丈夫になってきたよね?」と、確認するようにわたしに聞いたけど、わたしは、曖昧に受け流した。
出会って2ヶ月ほどが経った。
オカモトくんは、以前申し込んでいたスペイン旅行に一人で行き、ながらく世話になっていたおばさんの家を出て一人暮らしをはじめ、就職先も探しだした。
1人で、銭湯にも行っていた。
オカモトくんは、オカモトくんの世界の中で、普通に過ごすことができるのだ、ということを一つずつ証明しようとしているみたいだった。スタンプラリーでスタンプを集めるみたいに。
もしかして、わたしとのセックスもその一つだったのかな、とは、聞けなかった。
そうやって一人でできることが増えていくオカモトくんを追いかけるように、わたしはオカモトくんのアパートに通い、オカモトくんの右腕のかわりを探した。
爪を切る、耳掃除、痒いところをかく、郵便物を開ける、みかんをむく、洗濯ものを綺麗にたたむ、エトセトラ、エトセトラ。
オカモトくんは、その度に「ありがとう、でも、無理しないでいいからね」
と、優しく腰をぽんぽん、としてくれた。
無理なんかしてなかった。オカモトくんにまつわる仕事を見つけるのは、とても楽しかったから。
オカモトくんの家に行く回数が増え、だんだん一緒に住んでいる状態になり、いつの間にかわたしは、次の旅先のことを考えなくなっていた。
夜、いびきをかいて寝ているオカモトくんの横顔を見ながら、
明日はオカモトくんに何をしてあげようか、と、考えた。
幸せだ、と思った。
そしてこの幸せは、明日も、明後日も、その先ももしかしてこれからもずっと続くのかもしれない。いや、続いて欲しい。
そう思って、ひとり、ポロポロと泣いた。
わたしはどうやら、はじめて、人を愛してしまったらしい。
でも、オカモトくんの右腕がちゃんとあったら、こんな風になってなかったのかも。そう思うと、オカモトくんの右腕は、わたしにとってますます愛しいものだった。
■
ある日オカモトくんの荷物を整理していると、手作りの小さなアルバムが出てきた。写真にうつっていたのは、
イルミネーションの前でオカモトくんに腕をからめる女のひと。写真の中のオカモトくんには腕があった。
わたしが見たことのないおどけた顔でポーズを決めていた。
日付は、2年前。12月7日。
昔の彼女からのプレゼントだろう、ということは分かった。
胸騒ぎを押し殺しながら今一度見た女の顔には、見覚えがあった。
付き合って10周年記念。アルバムの最後のページに明るい文字が踊っている。10年?で、2年前、ということは。中学の頃から?
ツバサ&ハル。あ。これは、ヤマモトさんだ。同じクラスだった、合唱部の。
写真の女は、ニカッと大きく口をあけて笑っている。当時も、たしか明るくて、笑顔の素敵な人だった。10年も付き合っていたのか。長いな。長いですよね。でも、わたしは写真の中のオカモトくんより、今のオカモトくんの方がすきなんだから。と、ヤマモトさんを睨んだ。
(ヤマモトさんは、オカモトくんの腕のことを、知っているだろうか。)
無性に気になってしまい、その日の晩、オカモトくんに聞いてしまった。
「ヤマモトさんは知ってるの、腕のこと」
なんで急にそんなこと聞くの。ぶっきらぼうに聞き返したオカモトくんに、
わたしは、すぐにアルバムを見てしまったことを白状した。
あいつは、知らないんじゃない。
答えたオカモトくんは不機嫌だった。
もしかして、と思って、ヤマモトさんとは、いつごろ、別れたの?と聞いてみた。もう連絡はとっていないよ。と返ってきた。別れた、とは言わなかった。
「えっと、わたしとは、付き合っているんだっけ。」
「そりゃあ、そうでしょ。」
と言ったオカモトくんは、誰か別の人の話をしているみたいだった。
オカモトくんは、ヤマモトさんのことをまだ好きなのかもしれない。ああ、こういうものが、女の勘ってやつなのか。こんな能力、なくてもいいのに。
■
ヤマモトさんが亡くなった、という知らせを聞いたのは、
よりによって、そのアルバム発覚事件の一週間後のことだった。
肌寒い日だった。
ヤマモトさんの葬儀に出席するため、わたしと、オカモトくんは、別々に帰郷した。わたしは一緒に帰るつもりだったけど、オカモトくんに断られた。理由は言ってくれなかった。
久しぶりの地元。
呆れるぐらい変わっていない。
変わらない町。変わらない海。変わらない波の音。
そして。
ヤマモトさんの死に顔は、美しかった。
「悪性だって分かってから、すぐだったんだって。」
「まじ、こわいね」
「若いのにかわいそう。」
同窓会状態となった喪服の一群を見ながら、お葬式って、なんでみんな妙に浮かれるんだろう、と考えていた。
お葬式の間中、わたしは誰にもわたしと気づかれず、オカモトくんの周りには人がたくさんいた。オカモトくんは、途切れた片腕をもちあげて、陽気にふるまっていた。へいきへいき、と何度も言って。
「足じゃなくて良かったよ、サッカーもできるぜ。」
わたしと一緒にいるときとは違う人みたいだった。それは、中学の頃のオカモトくんだった。
「さえちゃん、海に行こう。」
一人でぽつんと座っているわたしを見つけて、そうやって誘ってきたのはオカモトくんの方なのに、オカモトくんは、さっきからちっとも喋らない。
わたしたちは、故郷の海を前に、2人、喪服で座っている。
この防波堤に、誰かと並んで座ったのは、初めてだった。
寄せては返す波。へばりつく潮風。
乾いた鳥の声。
テトラポットの隙間にはフナムシがたくさんいた。
フナムシを見るのは、とても久しぶりだった。
群れからはずれたフナムシが一匹、わたしのそばにやってきた。
《あの女が死んでホッとしているのですか》
うん、とても。
わたしは心の中で正直に答えた。
《おお、おそろしい。》
フナムシはブルブルと身震いした。
《彼が持っている手紙は、その女からのものですか》
オカモトくんは、左手で、手紙を持っていた。
それは、きっとヤマモトさんからのものだ。
ヤマモトさんのお母さんが、泣きながらオカモトくんに渡しているのを、わたしは見たから。宛名のところ、郵便マークのあとはぽっかりと空白で、几帳面そうな字で、岡本翼様 とだけ書かれていた。
「オカモトくん。」
わたしは、尋ねてみた。
「その手紙、読まないの。」
チラ、と手紙を見たオカモトくんは、うん、まだいい。と、答えた。
「あけようか。わたし。」
いいよ。オカモトくんは答えた。
「あけてあげるよ。」
いいよ、あとで自分でやるから。
ううん、あけてあげる。オカモトくんから手紙を奪い取ったわたしは、ピリピリと、丁寧に封をあけた。
中は、良いよ。見なくて。便箋を取り出したわたしを遮るようにオカモトくんは言ったけど、構わなかった。
わたし、読んであげるよ。
いいって。
読んであげるから。
俺、目は見えるんだけど。
うん。読むね。
『オカモトツバサさま
こんにちは。ハルです。
わたしは相変わらず、市役所の窓口で、おじいちゃんおばあちゃんに年金の説明をしつつのんびりやっています。そちらはどうですか。ツバサと連絡がとれなくなってから、しばらくして、実は一度だけ、東京に行きました。何度も遊びに行った君のアパート。君を探す探偵気分で、近くを色々、まわってみた。
そしたら、だんだん東京で2人暮らしする家を探している気分になって、不動産屋さんに入ったりして。はい、夫婦で住むんです、なんて。お芝居をして。わけわかんないよね。
ねえ、ツバサ、元気なの?元気だといいけど。
東京で働くのって、大変だよね。
君のことだから、仕事とか、色々、がんばりすぎていないか、心配しています。無理しちゃだめだからね。
これは、女の勘だけれども。
きっと君は、わたしに隠し事をしている。こんなに長く一緒にいた女を、侮っちゃだめだよ。
そして実は、わたしも、君に、隠し事をしています。ごめんなさい。
はやく帰ってこないと、後悔するぞ。うそ。わたしが、後悔します。
ああ。また、ツバサの前で、歌いたいな。
わたしは、ツバサに歌を聞いてもらうときが、一番幸せだったから。
今、新しく聞かせる歌を練習中。さて、この願いは、はたして叶うでしょうか。叶うといいんだけど。叶うことを信じて。
ヤマモトハル 』
オカモトくんは馬鹿みたいに泣いた。
お葬式で全然泣いてなかったのに。
背中をまるっこくして泣いた。オオカミの子供みたいだった。
オカモトくんは、ヤマモトさんのこと、やっぱり好きだったんだよなあ。
わたしが死んでも、オカモトくんは、こうやって、泣いてくれるでしょうか。わたしはフナムシに聞いてみた。
《そんなわけありますまい》
フナムシは、さらりと答えた。
《ヤマモトさんは死んだことで、オカモトくんにとって永遠になってしまったのです。君の入る隙間なんて、ありっこありませんよ。え、しかも一体君はなんです。そうやって堂々と、人の手紙を読んで。デリカシイのかけらもない。人の死にホッとできる人がありますか。そんな人が、人に愛される資格がありますか。そんなだからあなたはまったくいつまでも》
わたしは、そのうるさいフナムシを靴底で踏みつぶした。フナムシは、クチ、といって簡単に息絶えた。
ねえ、オカモトくん。
嗚咽をあげて泣くオカモトくんは、そのまま、わたしの胸に崩れた。
お腹のところでオカモトくんの暖かい息がくすぐったかった。
オカモトくん。
オカモトくんは、泣き止まず、
わたしはしばらく、その泣き声を聞いていた。
何か、歌おうか。うた。
ヤマモトさんみたいにうまく歌えないけど。
ねえ、オカモトくん。
わたしのうたも、聞いてよ。
オカモトくんは、泣きじゃくった声でやっと答えた。
うたって。さえちゃん。
どうしてあなたは、こんなに愛おしい人なんだろう。
わたしは、オカモトくんの頭を優しくなでた。
変わらないこの町。変わらない波の音。変わらない、海の匂い。
スウっと息をすって。
わたしは、はじめて、好きな人のために歌を歌った。
明日を歌えば、明日は笑う
明日を嘆けば、明日は去る
明日を探せば、明日は遠く
明日を歌えば、明日は来る
明日を、明日を、明日をこえて
今日を忘れて、明日へ行こう……
『フナムシ』(2016年)
『月ノ原中学校音楽準備室』という3人の脚本家のオムニバス作品で上演したリーディング戯曲(出演:佐藤みゆき)を、note用に少し改変しました。
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