常に自分に問いを持つ

大学卒業後、教員になって自分の不勉強に大変後悔することになった。何よりも教科書に何が書かれているのか意味がわからなかった。1年目に高校地理Bと世界史Bを担当したが、特に地理Bは悲惨な状態であった。指導書の板書案を黒板に写して読み上げる最悪な授業であった。自分自身で意味を咀嚼できていないので、オドオドしてしまう。当時の生徒たちには本当に申し訳ないと思っている。今振り返ってみても顔から火が出るくらい恥ずかしい経験であった。自分ができない。悔しい思いから本屋で地理の参考書を購入した。地図帳やセンター試験の問題演習を重ねまくった。板書案もそれなりに「構造化」されていった。センター試験で7割前後の点数が取れるようになった。2年目は自分の「型」としての授業ができるようになった。

自分の授業を俯瞰してみると、1年目にやったことを反省して、2年目に実践をすると抜群の「飛躍」がある。知識の面で補強されているのでかなりいい。だが、2年目から3年目やそれ以降のなると「飛躍」はなかなかしないことも判明した。それはなぜだろうか。

前例踏襲 学校の世界では未だに多くのことがこの言葉で片付けられている。今までの実践を継承することだが、良くも悪くも「変化」がおこらない。これはしばしば思考停止を生む。そして言いようもない停滞感が生まれる。人間は慣れの生き物である。一度「型」が生まれるとその思考の枠組みで物事を考えてしまう。そして、自分の無意識の心の中で「これでいいのだ」と囁く。大切なのは常に内省することだ。「なぜこれをするのか?」「これでいいのだろうか?」「これを行うことで何が達成するのか?」


常に問いを持つこと。探究的な姿勢が教師自身求められていると思う。


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