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なじみ、いきつけ、かかりつけ

企画を考える時、根っこにあるのはたいてい「こんな世の中になったら素敵だなぁ」という夢だったり願望だ。
今、考えているのは「人々の心の居場所はどうしたら作れるのか?」ということについて。
これは、そのヒントは「なじみ」「いきつけ」「かかりつけ」にあるのではないか?という思いつきをメモしたブログです。

心の居場所 HomeとAway

最初に「心の居場所」と書いたものが何なのかを解説しようと思う。

そのためにはHomeとAwayという2つの存在から始めなければならない。

「心の居場所」とはHomeのことだ。対してAwayという「外側の世界」がある。この2つはセットになっている。

人が成長するためには、今の自分の外の世界に出る必要がある。それはAwayに行く、という意味だ。
しかしAwayに行くだけでは人は成長できない。Awayから学びを得るには、自分の心の居場所を持っている必要がある。それがHomeの役割だ。

Homeは自分の意思で選ぶもの

Homeは心の居場所だが、言い換えれば「自分らしくいられる場」となる。Homeはまるで真冬の浴槽のようなもので、あたたかく思わず「ふぅ〜」と言ってしまうような場だ。

Homeは具体的な空間であるとは限らない。1人が複数のHomeを持つこともあるし、バラバラのピースのように散らばったHomeもありえる。

色々な姿形のHomeがあり得るけれど、大事なのは「これが自分のHomeだ」と、自分の意思で決めることにある。

Homeはまるでサナギを包む繭のような、暖かさと安心感がある。同時にAwayへ羽ばたくための準備の場でもある。

Awayは自分の意思で選ばなかったもの

Awayは、一言で書けば「Home以外の全て」になる。Homeが「私らしくいられる場」であるのに対し、Awayは私らしくなくいる場になる。

自分の中にない経験を得たり、自分の中の経験の価値を知ったりする場がAwayだ。Awayで得たものはHomeに帰ることで初めて自分の糧となる。

「なるほど、自分はここまでできるのか」
「これは、こうしたら可能になるのか」

体験は内省を通じて経験になる。
そして内省のためには、裸の自分になれる場、つまりHomeが必要だ。

Homeがないと学びが身につかない

Awayへ出るとは、鎧兜を身にまとい、未知の荒野に旅立つことだ。Homeに帰るとは、鎧兜を脱ぎ捨て自らと向き合い内省できる風呂に入るようなものだ。

では、Homeを持たない人はどうなるのだろう?

彼らはどんなにAwayに出ても、そこで得た体験を自分のものにする場所がない。だから、いつまでたっても同じことを繰り返す。

繰り返して、繰り返して。
同じことは繰り返せるけれど新しいことができなくなる。なぜなら、新しいことを学べないから。

全く学べないかというと、そうではないけれど、Homeがある人よりも効率が悪い。

新しいことを学ぶにはHomeが必要だ。

Homeを持たない人ばかりの世の中でどうしていこう?

今日のブログのテーマは、最初に戻るけれど
「Homeを持たない人ばかりの世の中でどうしていけばいいのか?」
にある。

果たして今の時代に「Homeを持っている人」はどれだけいるのだろうか?
ほとんどの人にはAwayしかない、のではないだろうか?

サードプレイスやコミュニティ作り。
子ども食堂から自己啓発セミナー。
などなど。

多くの人が「自分らしくいられる場を手に入れるには?」という問いの中で動いている。
適切な場やコミュニティが作れれば、自分にとってのHomeが手に入るのではないか?
いい場所に行けば、自分を肯定してくれるHomeと巡り会えるのではないか?

そんな期待をエサに回る経済圏が存在している。

だけどHomeは自分で選ぶしかない

しかしHomeは、手に入らない。
AwayからHomeを供給してもらうことはできない。

なぜなら、Homeは「ここが私の居場所である」という旗を立てた場所だからだ。
その旗を立てられるのは、誰でもないその人だけだ。

なので外のAwayから
「ここがあなたのHomeです」
と言うことはできない。

いや、それを言うとカルトや洗脳、カリスマになってしまう。そんな偽Homeでは、本当の内省はできず、結果学びもいつまでたっても体験のままで経験化しない。

経験化しない学びは簡単に失うし、応用もできない。例えば同じノコギリで木を切るという事でも、体験の状態では「木を切る」という用途に使えるだけだが、経験の状態だと「素早く綺麗に木を切る」といった習熟や「木に模様をつける」といった応用ができるようになる。

カルトも洗脳もカリスマも、オリジナルを超えられないという致命的な欠点がある。

Awayの中にHomeを発見する仕掛けを施せないか?

前置きが長くなったけれど、やっと本題。

Homeは外部から提供できない(擬似Homeは提供できるけど、それは劣化コピーを量産する)。
Homeは自分で見つけるしかない、
と言ったけれど僕はHomeを発見しやすくする仕掛けはAwayの中に作れる、と思っている。

鍵は関係性が多様化することにある。と思う。

多様化した関係性とは、それがタイトルに書いた「なじみ」と「いきつけ」と「かかりつけ」だ。

僕の仮説はこの3種類の関係性が多いほどHomeは持ちやすくなる、というものだ。Homeを持っている人は、この3種類の関係性をメンテナンスしているのではないか、と思っている。

時間によって生まれる関係→なじみ

「なじみ」という言葉には元々「長い時間をかけて生まれた関係」という意味がある。

幼馴染
馴染み客
馴染み深い

HomeとAwayのなかでは「時間をかけて生まれた関係」という意味で考えている。少なくとも、長い時間を共にしていればその人の様々な面が見えてくる。
どこまで許容できるかは相手によるけれど、なじみの関係が多ければそれだけ自分の多様な面を知っている人が多くなりやすい。

他の2つ「いきつけ」と「かかりつけ」のベースになるのがこの、時間の経過によって生まれる「なじみ」という関係だ。

行くのが目的の「いきつけ」と得るのが目的の「かかりつけ」

いきつけは、行くことや会うことが目的の関係だ。
いきつけの飲み屋に行くのは、そこに行くというのが目的だから。そこに行けば、自分らしくいられる場があるから、いきつけに行く。

かかりつけいきつけの差は、得るものを期待しているかにある。

例えば、かかりつけのお医者さんの所に行くのは明確な目的がある。病気を治して欲しいから。

僕の場合、かかりつけの本屋がある。
そこに行けば、知らなかったけれど自分にぴったりの本が見つかる。

かかりつけは、ある側面においては自分以上に自分を知っている人のところに生まれる。

人と人の間にHomeを発見する

もし、僕のこの仮説「なじみ、いきつけ、かかりつけを持つ人が増えれば、Homeを持つ人も増えるのではないか?」が正しければ(もちろん間違っている可能性も多々ある)。
そして「なじみ、いきつけ、かかりつけ」は生み出せるものだとしたら。

今より世の中は楽しくなるだろう。

そうでないにしても、少なくともお互いの「なじみ」自慢や、「いきつけ」案内、「かかりつけ」シェアができたら。

それはそれで面白いと思う。

#エッセイ #ブログ

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