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さいしょの紹介

僕は越谷市というところに住んでいます。生まれ育ったところです。過去いろいろなところには住んでいなく、僕自身が暮らしてた街は越谷、東京、盛岡のたった3つ。でも暮らしながら何個かの街で知ったこと、気づいたことは、幸いなことにいま過ごすということに大きく影響しました。そのことから、地域の未来をつくるためにも綴れることを思いついたときには綴ってみようと思います。

これから人の人生は100年と言われています。

結婚して何かの縁でどこかに住むことになり、子供が生まれその子供はそこで育ち、学び、やがて成長しそこで暮らし育ったことを心に刻み、社会に羽ばたいていく。自分が何者かというアイデンティティのようなものは、偶然のそんなとこから育まれてくるのではないだろうか。仕事の場として何を実現できるのか、どこでそれを実現できるのか。その実現さえも十分に受け入れることができる街であるとしたら。

生涯100年 豊かに暮らせる街をいまから作ろう!と妄想します。

高校の頃の「不安と希望」

僕の家は祖母、祖父、父と大沢という地域で70年ほど歯科医院を構えてきました。僕はその場所を継ぐという既成概念が幼少からあったため、生涯この町で暮らすことを決めていた気がします。高3の時には生涯の仕事と仕事場が決まっている人生で、それはそれで今思うと迷いがなく、易しい選択でした。しかし当時この先の一生涯の退屈な環境が目に浮かんでいたのです。いつも見ていた歯科医院という狭い空間に、数名の長年同じ顔のままの人たちとともに30年も40年も仕事として過ごすのです。とてもその閉鎖的な関係に耐えれる自信がなく、憂鬱な顔でいる未来の自分が想像できました。

かたや一方で、歯科診療をなりわいとすることにはとても希望を持っていました。困っていることや人へ直接献身できるということ。また過分に感謝をいただけること。小さいころから医院で遊びながら過ごしていることも多くありましたが、父、祖母を見ていて誇らしさはいつも感じていました。

生涯ここに暮らすだろう。閉塞や退屈は嫌である。医療に携われるありがたさ。

これらを自分の人生の中で納得もって過ごすことと決めれたことが、目的持って人生を過ごす最初の思考でした。高3の時でした。人より早く、迷いなく進めれたことが大きかったと感じるのです。

東京

越谷に住みながら中学高校は東京に通っていました。中学受験の模試、父親の友人の矯正歯科が青山にあり通院したりと小学校の頃から電車でよく東京へ行っていました。さらに中高6年、結構な時間が東京で過ごす時間です。学校は文京区、寄り道は通学路途中の飯田橋、お茶の水、上野アメ横、越谷とは反対に渋谷、青山、原宿で寄り道と東京のいろんな場所の香りを嗅ぎながら、買い物見たり、レコード見たり、お茶したり目的もなく、学校帰りただ時間を過ごす場所が東京のどこかでということでした。何か風景が違います。人も、ものも、店も、道路も、道にある広告も楽しくかわいく刺激をするものばかりです。80年代純粋に圧倒的に東京の至る所が楽しくワクワクする場所でした。そして埼玉、千葉、神奈川から通う僕らは都民でないことをいつも引目に感じているのです。大学進学は東京で、住まいも東京にしよう。将来働くところも最初は東京にしよう。という未来も安易に想像してしまうのです。それだけ圧倒的に当時の中学高校生には楽しいところだったのです。だからそこでの時間を過ごしてしまうと東京という街以外は屁のような感じがしてしまうのです。

大学は盛岡へ

しかし、大学は岩手県になりました。岩手と言えば1980年代当時「北国の春」とシェパード、NHK紅白での東北地方の悲壮感。本当にそれしか情報がなかった。東京方面にいると当時本当に異国だと思っていました。しかも暗い異国。東京はバブルで夜な夜な六本木は大騒ぎ。TVも深夜放送が始まったばかりで「オールナイトフジ」なんつってよなよな憧れのちょい上お姉様たちがテレビに写ってる。その間岩手で6年間。こんなことになっちゃった。失敗できない人生で幸先悪くすでに挫折。4月の入学式に合わせて初めて盛岡駅に着いた日は雪が降ってる。4月なのに岩手は雪が降るのか、泣。受験すら都内で、岩手に行ったことのないまま岩手医科大学の入学式を向かえた前日、初めておとづれました。環境の変化が大きすぎて流石に初日はポジティブになれませんでした。

6年間の盛岡暮らし

自分が社会に出て何をしなければということが明らかであったため、学生6年間ののちすぐに越谷に帰ることに決めていました。盛岡最終日、車で関東に帰る僕らを多くの同級生が見送ってくれるなか、ゆっくり街中を走りながらの途中、盛岡の景色の象徴である北上川から見える岩手山が目に入ります。その雄大で寛容な象徴的な景色から、素晴らしい盛岡の街での出来事が思い巡り、離れる寂しさから車の中では涙が自然ととめどもなく流れ落ちてきました。6年前と全く違う感情が出来ていて、その時にはすでに盛岡という街は第二の故郷となっていました。
何でそう芽生えたんでしょうか?
そしてとても住みよい素敵な街で、この盛岡での生活が僕に「人が豊かに暮らす所」という感覚を大きく作ってくれました。職場と住まいが近く、ハイセンスなレストランはなくてもどの食事処もとっても美味しく、街中にはきれいな川が流れ、緑あふれる景色が至るところにあり、それらは全て歩いていける距離にある。朝には市場、車で30分も行けば岩魚ヤマメがいる川に入れ、夜には星が万と見える山があり、大自然がいつでもすぐに受け入れてくれる。そこのどこにも優しい人がいて、話をしてくれてゆるいつながりを感じる人たちで溢れている。この街の要素は人々が暮らすにとても自然に心地よいものを感じるのです。

盛岡がなぜ僕にとって第二の故郷になったのか、
これがいまでも考え、今住むまちのよい街にしたいという信念と考察になっているのかと思います。


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