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無関係の使 第1回 星雲になれるかな

 ひとりで住む部屋に何点かの絵を飾ってきた。
 それは私をときめかせるような作品でも、ざわつかせるような作品でもかまわなくて「ただ存在する」を可能とするのが、どうやら共通項となる性質であるようだ。そのようなありかたは私にとっては特別なものではない、というより、私にだってできるありかただと思っている。要するに、私ができるありかたが許容される環境を構築するため、私は絵を飾っているのかもしれない。


 最近、3点の絵を購入した。
 下北沢440で行われた波多野裕文さんのライヴにて、近藤康平さんは背後のスクリーンにうつし出される絵を描いていた。ライヴペインティングだと聞いていたため、ひとつの公演を通してひとつの作品を仕上げる様をイメージして来たのだが、1曲に1点のペースで描くというのが近藤さんのスタイルであるようだった。
 観ているうちに、近藤さんがそれを行う目的は特定の像を完成させることにはなく、1曲が終わるまでの間「描画」を続けることにあるように私には思えた。初対面の近藤さんに自説をぶつける勇気は出せなかったから、本当のところはわからないけれど。

『眼をあけてごらんよ ゆっくり』と歌が始められたとき、
絵が映し出されていくはずのスクリーンには、
水張りに滲む赤絵具の薔薇星雲が拡がっていた。

睫毛の先から5500光年の距離を引きちぎられたのだと錯覚した。
// 私はその錯覚をいまでも固く信じている

星雲と結ばれたままの視界に、
大きく曲がる道と道に沿って並ぶ街灯、
街灯に寄りかかる人影が、
次々に置かれていった。

こんなにも気持ちの良いゆっくりでレンズのピントが合う眼球を持てたなら、
ほんとうに良かったのにな、
と思った。

 時間のなかで変わり続けた像のことを覚えていたくなった。その願望は、私が好む音楽たちの、特定のまとまりにも向けられがちなもので、たぶん私は初めて音楽作品を買う気分で絵画作品を買った。


 どうすべきかわからなくなったのは、帰宅して包装から絵を取り出したときだった。描かれる過程を切り離して認識することのできない、「ただ存在する」が不可能な絵がこの部屋にやってきてしまった!これまで飾ってきた絵と同様に掲示しようものなら、私は部屋の空間に許されなくなるだろうなと、直感した。


 数日間の留保ののち、3点とも外部へ通じている廊下の壁に架けることとした。1Kの部屋であるため、家にいる時間のほとんどを過ごしているリビングに置けないとなるとそうするほかには無かったのだが。
 しかし、結果として発生した「ありかた」の濃度勾配が、私の1日を円環から(おそらくは、本来の)螺旋へと変えたのだった。

乾き固まった時間に囲まれた部屋から、
流動の記憶を思い出しながら扉を開け、
渦を巻く外界へと飛び込むイメージ。
今日の私は滲めるだろうか。

ちいさく生きる器官を、
ゆくゆくは力の尽きるそれぞれを意識しながら、
// ゆっくりと、ゆっくりと拡がって、散って、ぼんやりと、
帰ってきた部屋にて新しく燃え拡がる姿を夢に見て、
落ち着いて眠れるだろうか。

 今後の私は、どのような私のありかたを、許容するようになるのだろうか。
 ゴールの存在しない螺旋は描かれ始めたばかりだ。


🦭 🐕