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「ことばと思考 シップ」09 現代「かな」づかい考 ―なんか、気になったりとかしませんか―

 ニュースで流れる「街の人の声」やスポーツ選手へのインタビューで、こんなコメントをよく耳にする。
 「~も致し方ないのかなと思います」
 「~が今後の課題かなと思います」
 「致し方ない」「課題だ」と言い切らずに「かな」をつける。親しみのわく言い回しではあるけれど、言い切らずにフニャッとぼかされると、ごまかされているような、あるいは急になれなれしくされたような、妙な心地がする。ここ何年かで、耳にすることが多くなったような気がするけれど、これは一体どういう現象なのだろうか。
 というわけで今回は、現代の奇妙な「かな」づかいについて、考えてみたい。

気づいたら、言っている
 広辞苑で「かな」をひくと、①不確かな点を確かめる意で自問し、あるいは、相手に問い掛ける語②(「ない―」の形で)願望の意を表す、とある。今回問題にする用例は①で、「自問」と「問い掛け」の両方の要素を持っているといえるだろう。
 この言い方が気になり始めたのは、冒頭にあげたTVのニュースだけでなく、日常のあらゆる場でよく耳にするようになったからだ。そこには家族や友人との会話だけでなく、職場の会議のような場も含まれ、上司や同僚が「これは○○したほうがいいのかなって思いました」などと言うのを、何とはなしの違和感をもって聞いていた。
 ……と、他人事のように言っているが、実は自分も「かな」をよく使ってしまうという自覚がある。例えば、業務の進捗を報告するときに「予定より若干遅れていますが納期には影響ないかなと思います」などと言う。このときの心理としては、「予定より遅れている」ということにだいぶ焦りつつも、平気な風を装いたい。かといって「納期には影響ない」と断言したくはないし、悪い印象を与えたくもない。そんな脳内の錯綜が凝縮されて、ふと気づいたら「かな」が口をついて出ている。そんな感じだ。

 ところで、こうした「かな」現象について、世間の人々はどう思っているのだろうか。意識調査のアンケートを実施してみた。

あいまいで自信のない私
 アンケートは2021年4月25日から5月23日まで、Twitter上で応募を呼びかける形で実施した。回答数は21件と少なかったが、一定の傾向を示すものとして結果を公表する。
 
 「~かな」を日常生活においてよく耳にすると感じるか、という問いに対しては、85%の人が「感じる」と答えた。さらに、その人に「~かな」についてどのように感じるか、と聞いたところ、「特に何も感じない」61%、「不快ではないが違和感がある」16%のほか、「その他」として「本人の意見+客観的な意見にして和らげている感じがする」「断言することに非常にプレッシャーを感じる人が増えたのだなと思います」という回答もあった。「不快に感じる」「好ましく感じる」と答えた人はいずれもゼロ。また、自身も「~かな」をよく使う、と答えた人は61%いた。

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 最後の設問で、「~かな」に限らず、話し言葉全般で気になっていることを自由に記述してもらったところ、「~させていただく」が気になる、という回答が3件。また「責任の所在をはっきりさせない、断言することを粗雑と感じる、謙譲語尊敬語丁寧語の区別がつかなくなっている、の3点は頻繁に感じます」「『~かな』というのは自信のなさの表れだと思います。言い切ると問題が起こった時に自分の責任になるというのが嫌なので」など「責任」に言及する回答もあった。そのほか「最後に『知らんけど』を付けられると、本人がその発言に自信がないのか、相手に共感を求めていないことをやんわりと示しているのか、わからないときがある」「テレビ解説でも、ふだんの会話中にも『そうですね』が、最初に出てくる。非常にあいまいな言葉で違和感を感じます」など、全体的に曖昧さ、自信のなさを指摘する意見が多数寄せられた。 

 ちなみに、この最後の設問に自分が答えるなら、「なんか、○○のこととかって、わかったりとかしますか」のような言い方が気になる。「とか」や「たり」でぼかされて、もはや言葉としての実体がないに等しい。パン粉をまぶしすぎて、ほとんど衣の味しかしない揚げ物みたいだ。これもやはり、ストレートに発言するのは怖いから、とりあえずいろいろくっつけてみました、といったところか。

薄めて、なじんで、支配される 
 ここからは、現代「かな」づかいの背後にあるものについて、さらにつっこんで考えてみたい。
 先ほども書いた通り、「かな」には「不確かな点を確かめる意で自問」する意がある。自分なりの考えはあるけれど、それに対する自信や確信はない。また、それを言うことで、誰かの機嫌を損ねて叩かれたくないし、何かまずいことが起きても責任などとれない。だから、人前に出す前に「これはあくまでも私の推測ですよ、断定してはいませんよ」というエクスキューズを入れて薄めておきたい。そこで「薄め液」の役割を果たしているのが「かな」なのではないか。

 しかし、そもそもなぜ薄める必要があるのか。そこで思い当たるのが、この手の話題ではもはやおなじみの、「空気」というものの存在だ。
 「空気が読めない」の略語「KY」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされたのは2007年。また「忖度」が2017年に同賞の大賞を受賞したときは、ほとんどセット扱いで「空気を読む」もメディアによくひっぱり出された。さらに、「空気」を読みすぎる女性が主人公の漫画『凪のお暇』(コナリミサト、秋田書店)がTVドラマ化され、話題になったのが2019年。こうした動きから、「空気」は2000年代以降に広く使われ始めたような印象を持っていたが、調べてみると、もっと古くから、日本社会の特徴を表す概念として君臨していたようだ。

 その代表格が1977年に発表された山本七平『「空気」の研究』(文藝春秋)だろう。著者は、人々が何かの決定を往々にして「空気」に委ねていること、そしてそれが「強力な規範」となって私たちの口を封じるという現象が、戦前から戦後に至るまで、変わらず起きていることを指摘する。その現象は、本書の発表から40年以上が経過した今も根本的には変わらない。もっといえば、一層加速しているとさえ思える。
 本書で面白いのは、「空気」支配から脱却するための手段として「水を差す」という概念が提示されていることだ。著者によれば、「水」とは言い換えれば「現実」のことであり、それを連続して差し続け、いわば「雨」をしとしとと降らせ続けることで、「空気」のみによらない「現実」を保っていられる、ということだ。

 「水を差す」という言葉には、余計な口を挟む、邪魔をする、勢いを削ぐ、といったニュアンスがあり、マナー上「よくないこと」とされている。しかしこの「マナー」というのも厄介で、相手への思いやりから実行されているものもあれば、意味を失って形骸化しているものや、単に「波風立てたくない」「文句言われたら面倒」というだけで渋々やっているものも少なくない。そう考えると、「かな」も「何となく、断言しないほうがよさそうだから」くらいの感じで、「空気」になじむように自分の言葉を薄めることで、結果的に「空気」支配を補強する役割を果たしているといえるのではないか。
 しかし、現実、つまり本心や事実を口にしたくらいで淀むような「空気」など、守る必要があるだろうか。少なくとも私にはない。ならば、天を仰いで乞うてなどいないで、たとえ小降りでも、自ら雨を降らせることだ。目に見えない「空気」に溶け込むよりも、目の前の誰かと真に分かり合うために。

工夫かな、それとも回避かな
 「仮名」は7世紀頃、日本語でものを書くための創意工夫の中で、漢字を変化させて生み出されたといわれる。それにならって無理やりまとめれば、現代「かな」づかいは、周りの「空気」をできるだけ良好に保ちながら、しなやかに自己主張をするための「創意工夫」といえるのだろうか。
 いや、創意工夫というより、何にでも「※個人の感想です」をつけて炎上を回避するような、パッケージ型の「リスクマネジメント」に近い気がしてならない。みんなでカナカナ鳴きながら、日暮らし、スマホに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、空気読みつつ書きつくる。そんな風流すぎる時代を、私たちは生きているのかもしれないなって思ったりとかしました。                       (了)

■「字マンガ」その9(作:しば太)
1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「点」。

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【テン たてる・つける・とぼす】小さいしるし、文章の切れ目のしるし、評価。お茶をたてる、明かりをつける。

※「シップ」09 PDF版はこちらから

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