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「ことばと思考 シップ」03 成熟って、何かね。―あたらしい「成熟拒否」のはなし―

 一般常識、ビジネスマナー、「大人の○○」……私たちの周りには、外面的な「大人らしさ」の指針やモデルはあふれているけれど、内面的な「成熟」となるとそうもいかず、なかなか自分自身に対して「成熟した」という実感は持てないものです。
 では、今、そしてこれから、私たちが目指すべき「成熟」とは、どのようなものでしょうか。いくつかの成熟論を概観しながら、考えてみたいと思います。

大ベストセラーの「成熟」論
 「成熟」に関する本、といってまず浮かんだのは、2013年に刊行されベストセラーになった曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』(幻冬舎新書)だ。累計発行部数は80万部を超え、同年の各種ベストセラーランキングでは軒並み上位に入った。
 本書では、海外での人道支援活動をはじめとする、著者自身の多彩な人生経験を下敷きに「成熟」が論じられているが、その論調は「成熟した人間というものは、必ず自分の立場を社会の中で考えるものだ」「……いずれにせよ言葉というものはそれほどに多彩な感情をこめて使わなければならないものなのである。それが成熟というものだ」など、非常に啓蒙的かつ明確だ。タイトルの「成熟とは何か」という問いかけにも、見事に応答している。
 こうした明確さと、回答に至るまでのアクセスの良さは、「○分でわかる」といった類のビジネス書や「まとめサイト」、さらに食べ物からファッション、ツアー旅行まで、あらゆる場所に冠される「大人の」という記号的なコピーなどと通じるものを感じさせる。主張自体のオーソドックスさと、そういう「今っぽさ」を併せ持つ、ハイブリッドな一冊だ。

なんのための「成熟」か
 ところで、曽野の成熟論にも、世間一般にも、「人間は成熟すべき」だという考えが前提としてあるが、そもそも、人間はなぜ「成熟すべき」なのだろうか。
 内田樹によれば、その答えはこうだ。

 子どもは成熟をめざす歴程に足を踏み入れなければならない。それは子ども自身のためであると同時に、彼らを含む共同体の安全のためでもある。それは子どもが子どものままであることが、共同体にとっての災厄を意味するからである。
(鷲田清一・内田樹『大人のいない国 成熟社会の未熟なあなた』プレジデント社)

 矛盾も葛藤も知らず、「世界のすべての意味を熟知しており、真偽の判定も価値の査定も自分に委ねられている」(前掲書より)と信じる幼児たちが共同体を動かしたら、一体どうなるか、ということだ。私たちは「子どもたちのために」といったスローガンを、疑問も持たずに受け入れてしまうけれど、実際は、成熟とは社会からの要請でもあり、「大人になってもらわなきゃ私たちが困る」のだ。

 しかし、よく言われるように、社会保障やサービスが充実した成熟社会―それが本当に「成熟」といえるかどうかは別として―は、個人が未熟なままでも生きていける社会だ。その意味では、今の日本は成熟を通り越して「爛熟」社会であり、もはや個人に成熟など求めていないのかもしれない。
 一方で、若者の未熟さや「子ども化」を嘆く大人たちの声は、今も昔も絶えない。特に、戦後の急速な社会変化の中で、それまでとは違う趣味嗜好や思考のパターンを見せ始めた若者たちを「成熟拒否」と呼ぶ論調が、かつてあった。ここでは、小谷敏編『子ども論を読む』(世界文化社)を参考に、「成熟拒否」論についてまとめてみたい。

「ずっと子どものままでいて」
 高度経済成長期の1960~70年代は、マンガやアニメ、戦隊ものなどの「子ども文化」が花開き、市場を拡大させた時代だった。大学闘争や反戦運動の火が消え、代わりに資本主義の原理が社会を席巻する中、内面的な成熟よりも、実用的でないものに大金を投じるような「幼児性」が称揚され始める。  
 それについて小谷は、日本のオタク文化を研究したE・バラールの分析に触れ、次のように述べている。

 高度経済成長期の日本の大人たちは、民主主義や社会正義についてのいかなる理想も子どもに対して示そうとはせず、ただ物質的豊かさの増大という目標のもとに彼らを駆りたてていったのである。(略)豊かさを手にして、どんな人生を歩むのか。どんな社会を実現していくのか。そうした問いかけに答える術を知らない大人たちへの失望から、日本の若者たちは「オタク」的な趣味への耽溺を深めていくとバラールは分析している。
            (第5章「アリエス・本田和子・80年代文化」)

 当時の大人たちは、「物質的豊かさ」や「子ども文化」の対抗軸となりうる「大人文化」や成熟のありようを、子どもたちに示せなかっただけでなく、高度資本主義を存立させるため、テレビCMなどを介して「おのれの欲望にひたすら従う」幼子のままでいてほしい、というメッセージを送り続けた。その結果、もはや「子ども」とは呼べない年齢になっても「子ども文化」から離れず、いつまでもその世界に安住しようとする成熟拒否の若者――オタク、モラトリアム、アダルト・チルドレン――が急増した、ということだ。
 現在、日本のマンガやアニメは世界中から称賛され、もはや「子ども文化」とは見られなくなり、それらを好む若者を否定的に見る向きも弱まったといえる。しかしそのことは、当然ながら、私たちが当時の若者よりも成熟した、ということにはならない。それどころか、私たちはもっと根の深いところで「成熟しがたさ」を抱えているのではないか。

失うことが「成熟」 
 そう考えたのは、江藤淳『成熟と喪失 ―〝母〟の崩壊―』(講談社文芸文庫)を読んでからだ。1978年刊の本書は、安岡章太郎や小島信夫、遠藤周作といった「第三の新人」たちの文学作品を通して、当時の日本が抱えていた未成熟のありようを、鮮やかに論じている。
 例えば、安岡章太郎『海辺の光景』の主人公・信太郎は、「圧しつけがましい」母親との密着的な生活を送っていたが、ある時からそれを拒み、母を見棄てたという罪悪感にさいなまれる。しかし年老いて、もはや正常でなくなった母は、反対に息子の信太郎を拒む。さらにその後、母が死を迎えたことで、信太郎の内部から「母」は完全に失われた。これを受けて江藤は言う。

 それが「成熟」というものの感覚である。といって悪ければ、少くともここに人を「成熟」にみちびく手がかりがある。なぜなら「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。

 江藤は続いて、未成熟が母子ではなく夫婦関係の中に描かれる作品として、小島信夫『抱擁家族』を取り上げる。
 「家」という母性的な世界の充実を求める主人公の俊介と、男のように「家」から出発しようとする先進的な妻の時子は、一見すると対照的である。しかしどちらも、成熟の要件である「自信」と、その裏付けたる「絶望」を欠いているという点で「深い未成熟」の中にあると、江藤は指摘する。そしてそれは、特に女性の時子にとって「あまりに急激に向上した生活水準の中で『成熟』する余裕を奪われた」ことで生じた「自己崩壊のあらわれ」だと述べる。
 本書を通して江藤が主張するのは、自分を甘えさせてくれる「母(母性的なもの)」の喪失なくして成熟は達成され得ず、また日本においては、敗戦を経ての急速な近代化が、さらにそれを困難にさせた、ということだ。このことが、その後の経済成長の中で先鋭化し、先述の「幼児性の称揚」につながっていったとすれば、納得できる。
 
職人芸的「成熟拒否」とは?
 江藤の論に従えば、伝統的な農耕社会=母性的社会に生きてきた日本人は、そもそもが「成熟しがたい」宿命を負っていることになる。『抱擁家族』でも、俊介の恋敵として登場するアメリカ人のジョージは、国家=父性的社会を背負った存在として、俊介と対極的に描かれている。ならば私たちは、欧米並みの成熟を諦め、一種の宿命として「未熟」を引き受けていくしかないのか。
 そう思った矢先、「成熟拒否」の概念をもって、新たな地平を開いてくれる本に出会った。阿部和重『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』(新潮社)だ。阿部は本書で、「ミーハー主義者」として戦後日本の成熟拒否論の「常套句中の常套句」にあえて便乗するという態度のもと、成熟拒否の「一例なのかもしれない物事」としてアンチエイジングや美容整形、精密機器産業、デコトラ(電飾などの派手な装飾をほどこした「デコレーショントラック」の略)などを挙げながら、日本人の「成熟拒否」を検証し直している。
 
 阿部はまず、戦後日本で「成熟拒否」が発動されたきっかけとして、終戦直後に公表された昭和天皇とマッカーサーとのツーショット写真を挙げる。両者の身長差を露わにしたこの写真によって、日本人の間に「小さい=かわいい=正義」という「方程式」が浸透し、製造業をはじめ各分野で「小型化」の技術が他国に例をみないほど発展したのではないか、また有名なマッカーサーの「日本人は12歳の少年」発言も、戦後の復興のバネになったのではないか、と推測している。
 ここまでは、阿部が言うところの、成熟拒否の「常套句」的解釈である。しかし阿部は、2011年の東日本大震災を受け、日本の「老年」化への憂慮へと、論を展開させる。

 しかし今、山積された課題とともに、被災地の現状をじかに見て受けた絶望感を踏まえて考えなおしてみると、日本は「少年」などではなく、むしろとっくに「老年」を迎えていたのかもしれないという気がしてきます。
 それを裏付けるかのように、急速に進行する少子高齢化。その点から見ても、戦後より現代に至る過程において、日本は青年期も壮年期も経ず、幼少年期の次にいきなり老年期へと移り変わったと仮定しても不思議ではないように思えます。

 少年でも老人でもなく、「終わりなき青春への志向」と「熟練者の振る舞い」を兼ね備えた「青壮年期」を迎えるためには、かつて日本を「産業的繁栄」へと導いた「小型化・省エネ化」に匹敵するような「新たな職人芸的『成熟拒否』」を発動させねばならない。阿部はそう主張する。

 阿部のいう「職人芸的『成熟拒否』」とは、私たちの得意分野ともいうべき「オタク気質」を、自分のため以上に、社会の欲求を満たすためのエネルギーに変えていくような態度をいうのだろう。
 青年へと成熟するために「成熟拒否」する、という逆説的な論理は、一見すると「奇策」のように思える。しかしそれは、例えば「○○のことなら××さんに聞け」といった口伝えのネットワークが張り巡らされていて、誰もが少しずつ何かしらの役割を引き受け、少しずつ誰かに寄りかかりながら生きているような、どこか原初的な地縁社会をイメージさせる。
 では、そうした態度を、現代の実生活においてどのように「発動」させるのか。阿部は本書で、その具体的なところにまでは言及していない。それはおそらく、明確な回答を用意してもらうのではなく、読み手がそれぞれに考え、自力で答え(らしきもの)に辿り着こうとすること、それ自体が「成熟」の一過程だと、阿部が考えているためではないか。
 その点に思いを巡らせず、「具体策を示せ」「批判をするのなら対案を出せ」などと憤るのは、おそらく最も望ましくない「成熟拒否」の発動もしくは「未熟」の表れだろう。                   (了)

連載「字マンガ」その3(作:しば太)

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1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「歩」。

歩【ホ、ある・く】右足と左足の象形を組み合わせた文字。「歩く」のほか、月日を経る、運命、水ぎわ、などの意味も。

※「シップ」03 PDF版はこちらから

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