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『ILLUME』とはなんだったのか:第7回:社会貢献活動である意味

成立の流れを追っているとなかなか、他の話が書けないので、ちょっと外れて、この時の宿題を書いてみます。

この日本語と英語で言うと、社会貢献活動をphilanthropic programとしているところが重要なのですが、その説明は次回に。

こう書きながら、第3回ではオリエンとコンペの話をしてしまいました。

時代背景とオリエンの課題

その中で、TEPCOの意図として「東京電力を代表する企業情報誌」を発行することにあったことを読み解きました。

それが、オリエンの課題である下記の中に無いと読み替え、独自の提案をしたというA氏の無謀が担当者に恵まれて当たったわけです。

オリエンテーションとなる課題は、次の4案からなる。
①ヒューマンアメニティ誌
②ファンタジックフューチャー誌
③ライフスタイル誌
④トレンド誌
・発行回数:年4回(季刊)
・発行部数:5万部
・配送費を含む制作予算は1号につき5千万円

今見ても、「ファンタジックフューチャー」ってなんじゃこれはという課題だと思いますが、こういう言葉を大真面目に出してくる様な時代だったということなんですよね、バブルというのは。

明るい未来しか見えて居ないし、現在の豊かさを踏まえた心地よさしか興味を持たれないだろうという予測の上で企画提案していることを感じます。

しかし、この2年ほど後から、日本はバブル崩壊で一気に不況に陥り、それから30年経っても取り戻せていない「失われた時代」を過ごすことになるわけです。株価だけは、つい先ごろ並んだ様ですが、生活を取り巻く状況は豊かになった感じはありません。

その時に、結果として、人間の創造性を前面に出して、社会貢献につながるものを作ろうという提案はバブルを超えた長い息を本誌に持たせました。

社会貢献活動であること

本誌は、この創刊の意義を示す言葉にもある様に、社会貢献活動として発行されて居ました。

ILLUME(イリューム)刊行にあたって
ILLUMEは、科学・技術とヒューマニズムの交叉がもたらす人間の多彩な創造活動をとらえ、科学教育の発展と科学ジャーナリズムの振興に僅かでも寄与することを願い、社会貢献活動の一環として刊行いたしました。

On ILLUME
ILLUME is published as part of our philanthropic program in order to further an understanding of the various creative activities which emerge from the intersection of science & technology, and the humanism. With this publication, We wish to make a major contribution to the development of scientific education and the promotion of scientific journalism.

単なる科学情報誌ではなく、科学教育の発展と科学ジャーナリズムの振興に寄与することを目指して居たわけです。

科学教育の発展という点では、無料配布の企業広報誌として、納本先に特徴があります。

最も多く送本していたのは、TEPCOの送電範囲内(東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県、栃木県、群馬県、山梨県)とTEPCO所有の原子力発電所が立地する福島県と新潟県の公立中学・高校の理科担当教師宛でした。

また、国会図書館へ納本し、大学や公立の図書館にも送っていました。

日本国内で頒布を目的として発行された出版物は、原則として、すべて納本の対象となります。

そのためにISBNを取得し、記載しています。

非売品であっても、図書館へ納める場合にISBNコードが必要になることがあります。

なぜ理科教師に送ったのか

若者の科学離れが言われる中で、なぜ、理科教師だったのでしょうか。

それは、印刷物を配布する先として「生徒」へ直接届けるのは膨大な数が必要な割には非効率ですし、学校に1冊送って生徒に読んでくれというのも無理があります。

当初は、TEPCOの指示もあって校長宛に送っていた様ですが、校長が読んでも子供たちに伝わるわけではありません。

子供たちに理科を伝えているのは、理科教師であり、その接点が間違っていれば、正しく伝わりません。多くの理系学生を目にしてきた編集顧問の先生方も、子供たちが出会った理科教師の出来が、その子の理科への興味を左右することを、経験的に感じていました。

そこで、学校に配布するにしても、校長ではなく理科教師にしてはどうかという意見が、編集顧問会議で出されたのです。まあ、裏ではA氏が編集顧問の山崎先生や小林先生に吹き込んでいたわけですが、それだけで動く様な方々ではなく、理科教師を支援するための副教材になれば良いという目論みがありました。

今はもっと顕著でしょうが、当時もすでに教師は生徒が持つ教材の多さに疲弊していました。学校の先生が塾よりも優れた教育用機材や資材(教本や副教材)を持っていることは稀です。さらに、90年代に入ってネット時代になれば、生徒の方がより詳しい資料を持っている事態すら生まれてきます。

その時に、最先端の研究者が専門の分野について、「玄人に後ろ指を刺されないレベル」で書いた教材があったとしたらば、理科教師は生徒に先んずることができます。

また、日常的な教育現場の多忙さの中で、理科教師自体が理科の面白さを見失っていたとしたらば、子供たちに面白さを伝えることができるでしょうか。小学生レベルであれば、でんじろう先生の楽しい実験でも良いかもしれませんが、理論や研究を背景にした物理・生物・化学・地学という分野では、その面白さを伝える力を教師が身につけるための努力はなかなかできるものではありません。

そこで、もともと理科好きだったはずの理科教師が読んで面白いと思えるレベル、つまり「素人が理解できる範囲」で描いた「玄人に後ろ指を刺されない」読み物があったらば、それがまたビジュアルとしても優れていたら、彼らのやる気を押すことができるかもしれないではないか。

そういう議論から、ILLUMEの編集方針は「素人=理科教師」というハイレベルの素人の理解を目指すものになっていったのです。

科学ジャーナリズムの振興として

年2回刊行というサイクルでは、なかなかジャーナルとして浸透するものではありません。しかし、5年、10年と本誌を発行しているうちに、もともと危うかった科学ジャーナリズムは、本当に壊滅していきます。

1941年発行の科学朝日は1996年にSCIaSと誌名変更しましたが2000年に休刊。

1982年創刊のQuark(講談社)は1997年に休刊。

1987年創刊のUTAN(学習研究社)は、1997年休刊。

80年代に創刊された科学雑誌は、90年代に次々と廃刊になっていきました。

今では、一般向けにはニュートンと日経サイエンス、子供の科学くらいしか残っていません。なかでもニュートンは、科学好きを自称する経済人の間でも人気ですが、専門家の評判は必ずしも高くありませんでした。

また、新聞の科学欄が、土曜日や日曜版に移り、新聞社の科学部は、医療や環境を中心とした編成に変わっていきました。

この辺りの変化については、いろいろな分析が出ていますので、そちらにおまかせします。

そうした中で、科学ライターの執筆の場として、本誌があることは、少しは振興につながっただろうと思います。

企業広報誌として

本誌が営業部から発刊されていることはすでに述べたとおりですが、この営業の前線にいる方々からの評判もありました。

TEPCOの営業というのは、当時はまだ自由化の前なので、誰に売るためではなく、効率的な利用を促進したり、省エネルギーになる工夫を提案して、電気代以外に機器を買ってもらう様なことをしていました。

そうした前線の営業マンが、本誌を持っていくとメーカーの工場長さんなどに受けがいいという声が出てきました。理系の担当者にお土産で持っていくと喜ばれるのだそうです。

そういう時代に、エネルギー未来開発センターは6年ほどで解散し、その後、本誌は、省エネルギー推進室の発行になります。

それも、こうした営業活動での評判と無関係ではありませんでした。

企業広報誌について研究した方の文章があります。

この中で、企業広報誌を刊行し続けるための工夫として以下の7点をあげています。

 ①目的とターゲットの再確認、②情報内容の斬新性。社会的ニーズとの合致、③採算の度外視化、④平行してネットを通じて読者コミュニティーを形成し、双方向コミュニケーション機能を確保する、の4点、また社内環境条件の整備として⑤経営トップの広報誌刊行への理解と意思、⑥見識と企画力に富んだ編集者の(できれば自社内への)確保、⑦執筆者群、アートディレクターなどの「財産」の蓄積、の3点である。

これに添えば、ILLUMEは、目的とターゲットはこれまで述べたとおりに確認し、情報内容は斬新であったし、採算は度外視していたし、ネット時代になる前だった読者コミュニティと折り込み葉書でのやりとりはありました。

社内環境としては、トップの理解という意味では、編集顧問会議に副社長まで参画してもらい、20号では当時の社長からコメントを寄せてもらっています。社内の編集者については、実はTEPCO のご担当者が毎回原稿をつぶさに読んで実に鋭い指摘をしてくださり、それを筆者にフィードバックすることで原稿が良くなることがしばしばでした。そして、執筆者群とアートディレクターは、まさに本誌にとって財産となったのでした。

こうしてみると、ILLUMEは図らずも刊行を続ける工夫がなされた企業広報誌でもあったといえそうです。実際に、約20年=40号近く発刊したのですから長寿だったと言えるでしょう。惜しくも、40号を目の前にして39号で編集主体となるA氏をバックアップする体制がなくなります。私はその3年ほど前から、編集チームから外れていましたので、詳しいことはよくわかっていません。

それが2008年のことでした。

この頃、TEPCOでは予算削減の嵐が吹き荒れており、その影響で営業部といえども、ILLUMEを発行する基盤が失われてしまったと聞いています。

時代の終わりだったのでしょう。

次回はまた本誌の話に戻ります。



サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。