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右翼も左翼も保守も革新もないとすれば、今必要なのはイデオロギーという名の理想論ではないだろうか

連休の間に、この記事がプチバズってました。

プチバズった元記事のまとめ

Twitterでもリツイートされてるし、noteのアクセスを見ても珍しく1000を超えてます。

みんな、ぼんやりと思っていた「なんか変だな」というツボを押せたのでしょうか。

まだ読んでない人に向けて、概要を書くと、右翼、左翼というのが登場の順番に伴う相対的なもので、保守と革新に相当せず、保守と革新を「既存概念の継承」と「新規概念の導入」と考えた場合には、戦後日本が築いてきた「民主的な社会」が「保守」で、「尊皇・愛国」ですら「革新」なのではないか、という極端な話を書いていました。

なんでこんなことを書いてきたのでしょう。

自民党=保守、野党=革新というマスコミの誤謬

衆議院選挙に受けて、「保守対リベラル」という政治的対立軸に意味がないという話から、新たな対立軸を考えたいと思っているからなのですが、元はと言えば、自民党総裁選に明け暮れるテレビや新聞が鬱陶しいのと、垣間見える野党の主張が馬鹿馬鹿しいところにあるわけです。

そのために、まずは「右翼と左翼」を考えようとこんな本を読み、記事にまとめ

今の自民党について考え、保守合同後の政治が、自民党と社会党の共同合作であったことと、それが21世紀に入って崩されていることを感じました。

私は、自民党について考えるとき、細川政権誕生による自民党の下野前と下野後(1993年)、さらに小泉前と小泉後(2001年)の二つの分水嶺があったと考えています。この話は、ややこしいので詳しい話は別にするとして、それに比していうと、枝野さんがいう20世紀の自民党というのは、下野前の自民党で、1955年の保守合同以降位生まれた保守もリベラルも飲み込んだ戦後推進型の自民党で、まさに「大きな政府」として社会制度を作ってきた自民党でした。

そして、自民党という党名で継続している政党は、我々おじさんは「保守」だと思っているけど、国粋主義だけど右翼ではない政党に変わっちゃったんじゃないか、という結論に達しました。

こうした状況を、「右翼と左翼」を読んだ結果達した<新しく登場した勢力が常に「左翼」で、その前に中心にいた勢力が右に追いやられて「右翼」になる>という定義に当てはめると、民主党が政権を取った途端、彼らは右翼=旧来勢力になり、その後に出てきた安倍政治は左翼=革新勢力となったのではないか。

若者にとっては、21世紀に入ってからの政治が「今の政治」であり、そこにあるのは、小泉新自由主義とその反動、失敗した民主党政権の残骸、そしてパターナリズムの安倍政権だけなのです。

そこには、おじさんたちがいう「保守」とか「リベラル」とかいう分類が意味をなさない政策と政局ばかりで、イデオロギーは存在していません。

反対の反対は賛成なのだ、と言ったのは赤塚不二夫ですが、革新の革新は、保守本流なんでしょうか? 

そうした混乱を整理する言葉を生み出さずに、マスコミ=おじさんたちは、いまだに旧態依然たる「保守」とか「リベラル」を持ち出すから、若者はシラけてしまうわけです。もうそんな時代じゃないよ、ということですね。

昭和95年なのか、2021年なのか、令和3年なのか

左翼的とされる「自由」「平等」「人権」も、右翼的とされる「歴史」「伝統」「情緒」も、どれも取り込んで対立軸はできないのでしょうか?

現在の私たちの立脚点は、本来は国際的な視点で、つまり2021年の視点を持つべきだと思うのですが、いつまでも日本国内では、年号に左右されるように感じます。それでも、せめて令和3年の時点での「常識」でなければならないと思うのですが、どうも政治の世界はいつまでも昭和、つまり戦後という視点に立脚しているように思えてなりません。

その戦後ももはや76年経ち、その間一度も戦争をせず、豊かな社会を切り開いてきた日本。いくらなんでも現代社会には、自由も平等も人権も「当然」あるんじゃないの? 若者たちはそう思っているんじゃないかと考えます。

だって、今年は昭和95年ですよ。

バブルとその崩壊も歴史的な事実として年表上の話になろうとしている中で、どれもこれもすでにある。でも、それが誰かの手で勝ち取られてきた、というような話は、「歴史」であって、自由と平等と人権は、すでに日本の「伝統」になっていて、その上で「情緒」豊かに暮らしたいけど、そこに「日本的なもの」はちょっと縁遠い。

そんな感じじゃないかなあ。

その辺については、前にも考えていました。

ここで書いているように、明治以降とそれ以前は、大きな変化があったにもかかわらず、私たちは、ぼんやりと明治あたりの話が日本の伝統だと思っています。だから、その延長に今の時代があると思いがちなのですが、実はそんな単純な構造で日本社会はできていません。

何を「保守」すべきで何を「革新」すべきなのか

この点を強くいうのが、現在の自民党のいう「伝統」で、それには私には違和感があります。その辺りを枝野さんがついている話を佐々木俊尚さんのnoteで読んだあたりから、この話は始まっているのですが、、枝野さんが「枝野ビジョン」の中で示している話を佐々木俊尚さんがまとめたものを引用させていただくと、以下のとおり。

 整理しましょう。『枝野ビジョン』の描いている構図は、こういうことです。
(1)日本には、「奈良時代から江戸時代までの1500年の伝統」と「明治維新から現在までの150年の伝統」の二つがある。
(2)立憲民主党が大事にするのは1500年の伝統であり、現在の自民党が大事にするのはわず150年の伝統でしかない。
(3)それでも20世紀の自民党はリベラルな政策を実現して分配してきて評価できるが、現在の自民党はそうではない。
(4)しかも強引に20世紀の日本社会を変更しようとしており、これは「保守」ではなく「革新」である。

だから今の自民党は保守ではなく、自分たち立憲民主党が「保守本流」だというわけです。

これを<「リベラル」な日本を「保守」する>という言葉で示しているわけですが、これは、「左傾化した日本社会」と私が評した戦後民主主義社会を指していると考えると符合します。それを「革新」しようとしているのが安倍政治だった。というよりも、小泉政権が「ぶっ壊し」、民主党政権が「撹乱し混乱させた」ところに、安倍政治が「美しい日本をインストールしようとしている」という流れかと思います。

「枝野ビジョン」では、この中間を経験不足と東日本大震災の話ですっ飛ばし、93年体制と安倍政治の話にしています。

明治維新から昭和20年までと、戦後を一緒くたにしてはいけないように思います。戦後復興の中で、自民党が社会党とセットの55年体制の元で行った政治が「保守本流」で「リベラル」と親和性を持っていることを評した点は、枝野さんに同意します。それは、「右翼と左翼」の中で浅羽通明さんが示したように、戦後の日本政治は日本の経済成長のために社会党があげた問題を自民党が解決する政策提言をして、法律の文案まで両党の目線で修正していった歴史だからです。

また、近年、日本で言う伝統とか伝統文化というのは、明治くらいから明確にされ始めていて、少なくとも室町からの流れで捉えられてはいないわけです。

その意味では、枝野さんが、安倍自民党の差す「伝統」が明治以降のものであるというのは正鵠を射ていると思います。

でも奈良時代から江戸時代までをまとめて日本の伝統だというのは、あまりにも歴史に無頓着だと言われかねない指摘だと思います。長く日本に受け継がれてきた「伝統」というよりも「民俗意識」とでもいうものを掘り起こして、そこにあるものを「保守」しようとしているのは、令和の視点だと言っても無茶すぎて、評しようもありません。

それくらいならば、保守も革新もなく、<日本は、歴史的に「自由と平等を重んじ、人権が保障されている」国で、和を重んじる「伝統」がある、素晴らしい「情緒」豊かな国>だと、誰か言ってくれないでしょうか。

私たちの国は、日本国憲法前文にある通りの国を目指してきたのではなかったのでしょうか。

保守すべきは、日本をどんな国にしようと先人が考えたかであり、私たちは、未来にどんな国を渡そうとしているのかを求め、その理想に欠けている現在を革新すべきなのではないでしょうか。

今ここにある暮らしと雇用も大事なのですが、その向こうにあるイデオロギーという名の理想論をもう少し戦わせても良いのではないでしょうか。

サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。