マヂカルラブリーは漫才の亜種か進化種か
今年のM−1は、マヂカルラブリーの優勝で幕を閉じましたけど、なんだか話題が止まらないようです。
マヂラブのネタはM-1用
今年のM−1については、こんな記事を書きました。
そうなると、それは漫才なのかという問題が出てこざるを得ない。マヂカルラブリーの野田クリスタルは、漫才です、と叫んでいましたが、そうでしょうか?
この記事の中で、私も提起していたのですが、これについて私の意見は、これに尽きます。
これから、漫才の進歩とM-1の進歩の方向は、少しづつ離れていくのかもしれません。
あれは、M-1 用のネタだと思うのです。マヂラブは、これまでも十分に漫才で結果を出してきたし、もちろん野田クリスタルがR-1で優勝しているのも含めて、笑いの実力は十分です。その二人が、M−1にあのネタを持ってきたことはなぜなのかを考えるべきで、彼らのネタが漫才かどうか、というような点が問題なのではないです。
マヂラブのネタを漫才じゃないと言っている人は、漫才師ではない層だろうと思います。それは、松本健太郎さんの分析にあるように、漫才に固定概念をいただいている人でしょう。
もしかしたら「微妙」と思われた方々は、オール巨人師匠やナイツ塙さん同様に「自分にハマらなかった」「だから微妙だった」とでも思っていませんか?
しかし今回のM-1は「漫才という共同幻想の破壊」がテーマだったと私は考えているので、漫才とはしゃべくりなんだとか、漫才とは掛け合いだ、というような批判は意味を成していません。
M-1 は、漫才の地平を広げる試みでもあるのです。
M-1における漫才とは何か
去年のミルクボーイが、平成のMANZAIの否定だったように、今年のマヂカルラブリーは、漫才はどこまで広がりうるのかという提案だったのかもしれません。
今年のM−1について私は、こう書きました。
紳介竜介からダウンタウンへと流れてきた平成の漫才のスタイルである「チンピラの立ち話」を基本に、4分間でどれだけ笑いを詰め込めるかのスピード勝負になってきたM-1というコンテストに、ついに、しゃべくり漫才の歴史を否定してでも笑いを取ったものが勝者という世界に到達したのが今年だったように思います。
しゃべくり漫才ではないけれども、あれは漫才でないとは言えません。
では漫才とは何なのでしょう。
私は、漫才について、こんなことを書いたことがあります。
今揺れている吉本興業が日本に広めたコントともトークとも演劇とも異なり、その全てを包括する舞台芸術が、主に二人の演者が並んで立ってマイク1本挟んで話をするという形式の話芸である「漫才」の進化系「MANZAI」。
このMANZAIをさらに進化させていく番組が、M−1です。
大体、今のMANZAIという言葉に行き着くには、何度ものスタイルの変化があります。
鼓を持って言葉遊びで寿ぐ芸であった萬歳から、エンタツ・アチャコがスーツを着て二人の掛け合いで繰り広げる話芸としての「しゃべくり漫才」に変化させました。その後見として秋田實と林正之助という大阪演芸界の大立者がいて、この漫才という仕組みを寄席で発展させて吉本興業が大きくなっていくということになるわけです。
和服で鼓を叩いてボケる「すゑひろがりず」のスタイルは、漫才として評価されにくいのが現代漫才の姿ですが、もともと鼓を叩くというのは萬歳の原型ともいえるものなのです。
その「すゑひろがりず」が今一つの評価だったのが去年のM-1だったことを考えると、今私たちがいう漫才とはいつ決まったものなのでしょうか。
審査員が決めたものがM-1の漫才:富沢の場合
M-1の最後のコメントが物議を醸したサンドイッチマン富沢さんは、こんなことを言ってます。
「参加規定、審査基準は『とにかく面白い漫才』とあります。主催者側が漫才じゃないと判断したら失格にすればいいわけで、『点数をお願いします』と言われた以上、審査員は漫才として審査します。そして各審査員は自分の中の漫才の解釈の枠で点数や1番を決めます」
この言葉につきますね。審査員は、審査基準に沿って審査しているわけで、それが漫才じゃなければ点数をつけなければいいんです。
昔、故・立川談志さんがM−1の審査員だったときにテツandトモに対して「お前たちはもういいよ」と言ったという話があります。
第2回「M―1グランプリ」決勝で、審査員の談志さんが「お前らはここに出てくるやつじゃないよ。もういいよ。俺ほめてんだぜ」と発言。
立川談志は、テツandトモが「面白い」と認めた上で、でも、M−1に出てくるタイプの芸ではないと指摘したわけです。
審査とはそういうことでしょう。
さらに、富沢さんは、自分たちのスタイルについても触れています。
「テレビで見ている方も『漫才とは』という自分なりの定義があると思うので、毎年のように『あれは漫才か!?』みたいな話題があがります」と理解を示し、「僕らの漫才もよく『コントじゃん』という方もいます」
彼らの得意なのは、シチュエーション漫才といわれるスタイルで、いわゆるコント漫才と呼ばれるジャンルのものです。設定を作り、その登場人物を演じて笑いを取るということですね。
「俺、なんとかをやってみたいんだよ。練習させて」とか、「コンビニの店員ていいよね、やってみよう」とか、前提条件を述べた上で、やり取りに入るものをみたことがあるかと思います。
最近多くなりましたが、このスタイルは当初、漫才ではないといわれたものでした。舞台に立っている二人自身がやりとりをするというのが漫才だとされてきたからです。
その富沢さんが漫才だと言えば、それは漫才に違いありません。
審査員が決めたものがM-1の漫才:塙の場合
同じ審査員で今回マヂカルラブリーに投じなかったナイツ塙はどう思っているのでしょう。
塙は「漫才か漫才じゃないかは、はっきり言って、僕が言うことじゃなくて。漫才の定義なんかないですからね」と述べ、「自分たち(ナイツ)が1番訳分からない漫才やってますからね。めちゃくちゃ面白ければ全然良いと思っていて」と自論を語った
漫才の定義がないかどうかについては、後でもう一触れますが、ナイツも漫才としては異端であることは確かです。
塙が客席を向いて喋り続け、それに土屋が突っ込んでいく。でも、二人は掛け合いにはなっていないわけです。ある意味、マヂカルラブリーの野田クリスタルが異常な動きをして、それに村上が突っ込んでいくというスタイルに似ています。
どちらも、ボケがやっていることをツッコミがお客さんに向けて笑いにつながるように注釈をつけているからです。
マヂカルラブリーについて「俺なんかはやっぱり、やりたいボケではあるんだよね、ああいうのは。本当は」と明かし、「だけどあれだけというのは…。俺もいろいろ言われてきてるし、怒られてきてるという歴史があるから、みんなやらないんだよね」と語った。
嫉妬ですね(笑)嫉妬して投じなかったんだな塙。
結局、漫才とは何なのか
それは置いておいて、漫才とは何なのでしょう。
富沢さんは、先程の記事でこんなことを言っています。
「漫才は色んな形があっていいし、だからこそ新しい形が産まれ、進化していくんだと思います。変化と進化を止めないからM―1は、漫才は面白い」
同感です。
だからこそ審査員は辛い。
「自分が何者かをさらけ出し、数十秒のうちに判断して人の人生が変わるかもしれないボタンを押したことがありますか?」と投げかけ、「何年も続けるには体に良くない仕事かもしれません」とした。
審査員が一番大変なのではないでしょうかね、あの番組は。
マヂカルラブリー 自身はどう思っているのでしょう。
僕らはあのネタですら単独ライブの最初にやる、わかりやすいネタなんです。あれが漫才じゃないなら、僕らの大体のネタは漫才の5合目にすら立ってないですよ。ただ、漫才じゃないっていう人を否定しているわけではないです。そう思う人もいるだろうって思うだけです。漫才について考えるっていうのはすごく素敵なことですし、あの審査員の方々ですら結論が出ていないことなので、一生、議論され続けることなのかなって。
受け止めてますね。それは、それまでの間に、散々考えてきて、M−1にあのネタをぶつけると決めているからです。
漫才かどうかが重要なのではなく、M−1で勝てるネタなのかどうかという視点で、あれを選んで、それで勝った。それが事実なのだと思います。
だから、素人がごちゃごちゃいうことじゃないんですよ。漫才かどうかなんて。
と言っている私も素人ではありますけどね。
ただ、漫才という言葉から連想される共同幻想が意外に強くて、それを破壊するのが、今回のM−1だったんだな、ということだと思います。
そして、今後、このマヂカルラブリー前と後で、漫才の地平が広がったと言われるかもしれないし、この後、反動で閉じるかもしれません。
全ては、来年の審査員に課せられた宿題になるのかもしれませんね。
大変だなあ、来年のM−1。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。