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文章は味わうものだというけれど

文体って難しいという話を2回ばかり書きました。

じゃ、自分はどんな文章が素敵だと思っているのか。ああいう文章が書けるといいなあ、と思っているのか、という話をしましょう。

最近、noteを書くようになって、noteを以前よりも読むようになりました。

フォローしている人もいるし、オススメの記事もあるし。

そうすると、ああ、この人の文章はいいなあとか、この人は面白い視点をしているな、とか思う上に、オシャレだったりカッコよかったりする文章に会うと、なんで俺はこう書けないんだ、と嫉妬してしまったりもするわけです。

一義的にこの文章いいね、とか言いますが、その中には、文体がしっくりくるとか、文章の味わいというか読んだ感じがいいなとか、書かれている内容が独創的だなとか、いろいろありますよね。

私が最近、いいなあ、と思いながら読んでいる人は、やはり、この人。

糸井重里さんの今日のダーリン。

noteでは、さとなおさん。ブログの頃から読んでますし、本も持ってます。

最近知った人では、古賀史健さん。

この3人に共通するのは、文章が滑らかなこと。

ゴツゴツしてない。ガクガクしてない。スムーズに最初から最後まで読める。そして、終わった時に気持ち良さが残る。内容はすごく深いときもあるけども、そうでもないときもある。でも共通しているのは、引っかかったり、意図がわからない言葉があったりしない。

それは、よくできた讃岐うどんを食べたような味わい。ツルツルと飲み込めて喉越しが気持ちよく、後味が良い。美味しいというよりも気持ち良い味。

毎日食べられるような文章だから、毎日書いているものを毎日読んでいる私。

でも、讃岐うどんを作るのに生地を踏んだり寝かしたり時間がかかっているように、書くに至るまでにはネタを揉んだり踏んだり、寝かしたりしていることでしょう。そして、お客様に出す直前に切って茹でて、さっと出す。

ナマモノの文章。それが鮮度の良い文章ということなのかなと思います。

一方で、時々、すごいなと思う記事もあります。

その「すごいな」は、これは私には書けないなという内容のときもあり、これは私にはできないなというフレーズ、比喩、言い回しのときもあります。

素材の良さとか、味付けの美味さとか、コショウがきいてるとか、焼き加減がちょうど良いとか、そういうことです。

他にも、実に楽しい記事、後味が良い記事、というのもあります。

例えば、流しの四元さんの記事。

文章が上手いということはないですが、素直に自分の体験したこと、そこにあった感動や動いた感情が飾らずに書かれています。

これは素材の良さもありますし、素朴な塩と胡椒だけのステーキがうまい、みたいな良さがあるんです。ジワジワと噛み締めていると旨味が出てくる。

ああ、いいなあ、と思ったりするんです。

素材の良さと人柄がにじみ出る文章というのは、自分には絶対に書けないなあと思うんです。

もう一つ、noteではないけど、素材がツボにはまっているのが、これ。

地図子という名前で、ブラタモリ的な街歩きを綴っているはてなブログ。

最近は、スリバチ学会とか街歩き研究会のようなところでお話もされているらしいので、一度お目にかかってみたいです。

街歩きとか地形とかブラタモリ好きな私の好みの対象を扱っていて、一生懸命書いている真面目さとちょっとした暗渠に感動する素直さが好きです。

そういう自分が好きなものを好きと言ってしまえる文章というのも、私には書けない気がしてます。捻ってしまうんですよね私は。こうひねくり回して、どや顔してしまう。客観的な表現になっていない時が多い。

世阿弥でいう、離見の見ができていない。

わかっているならやれということですね。

さて、文章は味わうと言いますが、こう見てくると文章を褒めたり、評したりするときの表現には、食べ物を評するときの言葉が似合いますね。

何故なんでしょう。

チコちゃんに教えて欲しいなあ。

そう思ったので、冒頭の写真だったり。

この本も気になってます。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。