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日本国憲法に目立つ「受動態」の何故

自民党の日本国憲法改正草案を読んでいるのですが、憲法調査会でも指摘され、自民党が修正したいという理由の一つに、文章がわかりにくい、ということがあります。

なぜ日本国憲法は読みにくいのか

日本国憲法を一読して感じるのは、そのわかりにくさよりも読みにくさです。

例えば、以前も紹介した、憲法調査会の資料の中にある、出席した委員の発言にもみられます。端的なのは、この岩国哲人さんの発言でしょう。

岩 國 哲 人君(民主)
 …(憲法前文が)日本人のお手本になるような日本語になっておるか、そういう目で見直したら、随分おかしなところがあります。…「諸国民の公正と信義に信頼して、」こんな日本語がどこにありますか。国語の先生がいけないと言っている日本語を憲法が使っている。これも恥ずかしいことではないかと思います。至るところ、英語から翻訳されたようなところがたくさんあり過ぎます。これは我々が誇りを持てない理由の一つです
第 147 回国会 第 9 号-p.18~19 H12.5.11

英語から翻訳されたような文章であるから誇りが持てない、というのは、短絡的な気がしますが、能動体に描き直す努力は必要かもしれません。条文が「受動態」なことが、そのわかりにくさを助長しているように感じます。

英語における受動態の意図

でも、これには理由があります。

日本国憲法は、よく知られているように元の文章が英語で書かれていて、それを翻訳したものをベースにしているわけですが、ではなぜ、英語の文章では、受動態だったのでしょうか?

英語だから受動態だという訳ではないですよね。

では、英語では能動態と受動態どちらも同じように使われているかというと、実はそうではありません。
普通は能動態のほうが使われています。特に会話では受動態はそれほど使われません。

英語で受動態にする場合には、ある意図がある場合です。

能動態では「行為者+行為+宛先」で表されるものが、受動態では「主語の状態(行為を受けた状態)+by+行為者」で表されています。

ところが、受動態の文章では多くの場合、この行為者が省略されるというのです。そして、あえて行為者を強調したい場合に最後に持ってくるという手法もあるというのです。

受動態は「伝えたい情報」が行為者であるときに、その行為者を文末にもってきて、聞き手にスムーズに理解してもらえるようにする一つのテクニックとして使われます。

ここで例文が挙げられています。

能動態:The boys and girls who received their education here will always support the school.(ここで教育を受けた学生たちはいつまでもこの学校を支援することでしょう)
受動態:The school will always be supported by the boys and girls who received their education here.(ここで教育を受けた学生たちによって、この学校はいつまでも支援されることでしょう。)

学校の支援という行為が、行為者である学生がどういうものか修飾する言葉が長いため、文末に持っていきたい場合に、好意を受けた「学校」を主語にして受動態で書くという場合です。

憲法の場合、主語が「日本国民は」であれば、そのまま能動体で書ける事象も、ある「権利」であったり「行為」が日本国民によって実現される、もしくは、行使される、というような文章になれば、受動態の方がしっくりくるかもしれません。また、どういう日本国民によって守られたり、実現されたりするのかを形容したい場合には、やはり強調したい日本国民という表記を後ろに持っていきたくなるでしょう。そうすると英語では受動態になるのではないでしょうか。

そうした、書き言葉としてのテクニックとして、GHQの創案者たちは受動態を使ったのではないかと推察されます。

日本語の受動態はちょっと違う

英語では受動態と能動態は同じことを表していても、書き言葉のテクニックとして、伝えたい情報を強調するために用いられることがわかりました。

しかし、日本語はちょっと違うのです。

日本語では1つの事実に対する立ち位置の違いによって受動態と能動態の2つの表現が生まれます。
そのため、日本語の受動態は能動態と同じくらい使われるわけなのです。

強調のためというよりも、話者の立ち位置を明確にするために、受動態を使うという訳です。そして、この立ち位置の違いは日本人にとって大変重要なので、日本人は能動態か受動態かが気になります。こうした文章へのアプローチの違いが、憲法の文章への違和感につながっていると考えられます。

受動態になると立ち位置が変わったような気がするからでしょう。

また、日本語の受動態は、特別な表記である場合もあります。

典型的な受動態では、能動態の目的語が主語になるという特徴がある。しかし、日本語ではそうでない名詞句が受動態の主語になることが可能である。これは間接受動と言われている。このとき、目的語は能動態と受動態で替わらない。間接受動は、朝鮮語では可能だが、英語やフランス語など許さない言語も多い。

受動態に対する感覚の違いが、文章に対する違和感を生じさせているため、憲法は時々理解しにくいのではないでしょうか。

私が「受動態」に引っかかった理由

自民党の憲法草案では、こうした受動態からの描き直しや、平易な表記への統一なども行われています。そこは評価すべき点だと思うのですが、ただ、そのために、本来の文章に込められた意図が失われたり、無視されたりしてしまっている部分も見受けられます。

実は、次に見ていきたい「第3章 国民の権利及び義務」は、そうした表記の問題が多い章ではないかと感じます。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。 

この第11条は、なぜ受動態なのか。そこに引っかかったために私はこんな記事を書くことになった訳です。

この文章を自民党草案では、こう直してあります。

国 民 は 、 全 て の 基 本 的 人 権 を 享 有 す る 。 こ の 憲 法 が 国 民 に 保 障 す る 基 本 的 人 権 は 、 侵 す こ と の で き な い 永 久 の 権 利 で あ る

受動態を能動体に書き直しただけのように見えますが、そこに込められているのは、それだけなのでしょうか。

さらに、なぜ、この条文と呼応するように置かれている第97条を削除するのでしょうか。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

次はそこを考えていきたいと思います。

サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。