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東京五輪閉会式とクールジャパンに相似する官製文化演出の気持ち悪さとZ世代型五輪への期待

色々な話題を醸した東京五輪のオリンピック部分が終わりました。

パラリンピック部分は、2週間後に開催です。

閉会式は成功したのかなんだったのか

ステイホームでテレビで見るしか無いんですから、視聴率も上がるでしょう。でも、見てられなかったですけどね。

閉会式のコンセプトは「Wolrds We Share」。各国の選手たちは入場後、スマートフォンのライトを点灯。五輪マークを形づくる演出に加わり、感動の瞬間に加わった。その後、「東京スカパラダイスオーケストラ」が登場し「Call From Rio」「花ふぶき」、坂本九さんが歌う「上を向いて歩こう」、人気アニメ「鬼滅の刃」の主題歌「紅蓮華」などを演奏し、盛り上げた。

演奏がスカパラというのが式典プロデューサーの好みを象徴していた気もします。

全体に「ポストバブルの相対主義好み」というんでしょうか。

サブカルとメインカルチャーを同列に扱いたがる、クラシックなものよりもポップでキッチュなものを好む。伝統文化と最先端を混在させたがる。

こういう特徴って、平成のポストバブル時代に流行ったよね、という感じ。

その頃が世代ど真ん中のイベントプランナーの好みというんでしょうか。

でも、国家イベントには権威が伴って欲しい昭和世代には評判が悪く、デジタルネイティブには古臭い感じがしたんじゃ無いでしょうか。

そしてやはり気になったのは、開会式同様に夜半にも関わらず子供が大勢参加させられていたところ。あれ労働じゃ無いんでしょうかね?

 終盤、子どもたちが星空を眺めながら夏の終わりを惜しむシーンに女優の大竹しのぶ(64)が登場し、宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」を披露。スクリーンには、64年大会の「SAYONRA」と同じフォント、解像度の“レトロ調”「ARIGATO」の文字が映し出された。

しかも、評判はあまり良く無いかもしれません。

「まるで葬式」と海外メディアに報じられた東京五輪開会式よりも、評価が低いともっぱらなのが閉会式だった。とりわけ大竹しのぶ(64)が合唱団の子供たちと宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌い、聖火台の火が消えるのを見守る大トリのフィナーレはドッチラケで、「なぜ大竹しのぶだったのか」「大女優に恥をかかせた」などとSNSでの評価は散々である。

大竹さんのシーンは、テレビで見ていても確かによくわからなかったですし、多分、会場の選手からは、それ以上に、なんだかよく見えないレベルの舞台演技だったのではないでしょうか。

開会式同様に「幕の内弁当」だった閉会式

こうした舞台ぽいものも含め、全体にテレビ視聴向けの演出だったように思えます。

 開会式・閉会式の演出を考えた人たちは「多様性」という言葉を「一貫性がなくても許される」と曲解しているのではないか。そう思ってしまうほど悔しささえ残る開会式・閉会式だった。

開会式もですが、閉会式も説明が必要なものが多すぎて、しかも細かく雑然と詰め込まれていて、それぞれに関連性も感じられないから、いわゆる一つの「幕の内弁当」状態だったという感想です。

分解していくと、開会式に絶対に必要だったのは、国歌斉唱と選手宣誓、開会宣言ぐらいなんじゃ無いでしょうか。

閉会式に必要なのは、閉会宣言と聖火の鎮火くらいで、あとは別に必要ないんじゃ無いでしょうか。次の都市への引き継ぎ式はいるか。

閉会宣言にしても、開会式同様、橋本聖子さんもバッハさんも挨拶長すぎでしょう。後半誰も聞いてませんでしたよ。

確かに多くの人に感謝を述べ、いかに意義あるものだったかを肯定する言葉は必要だったでしょうが、それでもあんなに長い時間いらんがな。

「あまりに準備不足でした。閉会式のオペレーションが満足にできていないのです。それが如実に表われたのは閉会式終了後、テレビの中継が終わったときですよ」

現場の混乱というか、多分人数制限もあって、スペースに見合った数のスタッフがいなかったのでは無いかと推測されますが、あちこちで「アンダーコントロール」ではなかったようで、これは開会式でも見られた落ち度です。全体に随時細かい指示を飛ばすコントロールタワーが感じられず、各所それぞれに任せているうちに、細部が抜け落ちてしまった感があります。

混乱する閉会式は東京五輪のレガシー?

権威を制することができず、細かい統制が効かず、統一感が感じられないごった煮感が、多様性の象徴なわけでは無いでしょうが、いかにも現場が混乱していたように感じます。

(式の時間は)2時間15分くらいですが、中盤ぐらい、9時半を回ったあたりから、よく見ていると気が付いたのが、式の合間に暗転してぱっとまた明るくなると、(いたはずの)選手団の人たちがいないんですよ。けっこう途中で帰られた方がいた感じでした。これは見ていてもすごくわかりましたし、橋本会長やバッハ会長のスピーチがありましたが、特にこの直前くらいになると、けっこうその(途中退出した)数が目に見えて増えたなというのはよくわかりました。

閉会式の入場が各国入り乱れたのは、1964年の東京五輪からと言われますが、これも実は現場の混乱によるものでした。

旗手を務めた福井誠さん(平成4年逝去)は、生前の講演会で、「海外の選手はお酒を飲んで酔っていた」と驚きの事実を語っています。閉会式に参加した海外選手はお酒を飲んで、陽気な気持ちのままに入場したことが伺えます。

制することができないままに雪崩れ込んだ各国選手が作ったムードがたまたま良かっただけとも言えます。

そして日本旗手を担いだ一行の後に続く海外の選手たちも、性別や人種に関係なく腕を組んで笑顔をはじけさせ、中にはマラソンのユニホーム姿で走る選手もいるなど、実に和気あいあいな雰囲気で入場は進み、会場は大歓声に包まれました。担がれた旗手の福井誠さんは、担がれながら見た光景を「スポーツの中に平和を感じた瞬間」と振り返っています。

1968年のメキシコ五輪では再び静粛なものにしようとしたのに選手たちが自由な雰囲気を作ったことで、その後、閉会式の定番となったといいます。

今回の閉会式では、最初の旗手の入場だけなのかと思ったらば、後から各国選手が入ってきて、私は驚きました。コロナ禍の五輪なのに、選手たちの中にはマスクをしてない人もいましたし、くっついて記念写真を撮っている人もいます。密な会場を作り出したのは、本当に良かったのでしょうか?

開会式&閉会式とクールジャパン

総じて、開会式も閉会式も全世代向けというよりも、演出家の世代感というか、時代感を感じるものでした。

確かに、日本が誇るポップカルチャーはマンガでありアニメなのかもしれません。そしてそれが日本政府的にはクールジャパンなのかもしれません。だから、こうした演出がいろんな会議を通ったんでしょう。

でも、だからなのか、クールジャパンの広報活動を見たときに感じる、ある種の気恥ずかしさとか、じゃない感がこの開会式&閉会式にも見受けられ、ああそうか、この既視感は政治家や省庁を落とすときの広告代理店のプレゼンを見ている感じなのかと思い当たりました。

そうした「クールジャパンをコアに据えたワールドワイドかつ全世代向けのジャパンカルチャーの発信」的な気持ち悪さが開会式と閉会式を覆うものだったように思います。

確かに開会式での各国選手団の入場更新時のユニフォームの中に日本の柄や文化を引用していたり、競技の演目の中で日本を感じさせるものがいくつかありました。

ジョジョ、進撃の巨人、セーラームーン…。2020東京オリンピックでは、各国の選手たちが日本のアニメや漫画のキャラクターを真似するパフォーマンスで盛り上がった。日本のポップカルチャーがいかに海外で愛されてきたかを物語っている出来事だ。

それは率直に嬉しいと同時に、やはり気恥ずかしいのは自分がおじさんだからでしょう。

でも、ここで誤解したくないのは、日本だからアニメや漫画を選んだというような親日的な話ではなく、すでに彼らにとって漫画やアニメは、なれ親しんできたポップカルチャーであり、本当に愛するものだということです。

それは、日本の若者がスケートボードやサーフィンやBMXやボルダリングといった海外由来の文化に根ざしたスポーツに心から親しみ、世界と打ち解け、メダルを獲得するレベルで習得しているのと、多分同じことなのです。

Z世代の時代には五輪も変わっていくだろう

そうした令和&Z世代の姿こそが、式典コンセプトの「Moving Forward」という言葉など敵わない、今後の世界に向けた姿を象徴していたなあと思いました。

スケートボードやスポーツクライミングが五輪競技として採用された背景には、国際オリンピック委員会(IOC)の「若い世代をオリンピックに引き込みたい」という意図がある。冬季五輪でも、その観点から新たな種目が取り入れられている。
 だがIOCの作った枠にはまることはなさそうだ。そう思わせる姿が今大会で見せたパフォーマンスや光景にあったのではないか。新競技は従来の大会に新たな魅力を添えていた。

日本だからとか、歴史ある競技だからとか、そういうおじさん達のこだわりを叩き潰して、新たなカルチャーが五輪から生まれても良いのでは無いかとも感じました。

今回の五輪で一番新鮮だったのは、スケートボードやサーフィンなど新しい競技の選手たちでした。彼ら彼女らの言葉や表情からは「私がやっている競技はこんなに面白いんだよ」「面白いからやっているんだ」という気持ちがストレートに伝わってきました。もちろん試合ですから勝負はあります。でも、面白いからこそもっと高みを目指そうとし、お互いがそれを楽しみにしている。そこには国を背負っている悲壮感は全くない。スケートボードのパーク決勝で演技を終えた岡本碧優さんのもとに他の選手たちが駆け寄って抱き合うシーンはまさにその象徴でした。

彼らの新しさは、競い合うこと以上に共に愛する競技に参加する尊敬できる仲間が尊いという姿勢だったように思います。

国を代表しているから他国の選手が敵だとか、他国の選手が勝ったことを中傷するSNSを送ったりするような時代は、今回の五輪が最後で、これからは新しい時代に入るんじゃ無いかという希望が、そこにはあります。

有森さんは、さらに書いています。

そして、改めて感じたのは五輪は国と国の対抗戦ではないということです。五輪憲章にきちんと記されているはずなのに、IOCすらそれを忘れてしまっている。五輪はただの「競技会」ではなく「平和の祭典」です。どの国が何個メダルを獲ったなどということは、本来言ってはいけないことなんです。五輪は個人と個人の戦いであり、お互いに認め合う場です。改めてそのことを思い出させてくれたのは新競技の選手たちでした。

彼らの姿こそが、本来の五輪を象徴するものであり、メダルに一喜一憂して朝から太鼓を叩いている某番組のような演出は、極めて昭和的でナンセンスなんじゃないでしょうか。

オリンピック憲章にはこうあります

オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない。

国家間のメダル競争では無いのです。

有森さんは、コラムをこう締め括っています。

特殊な五輪が終わった今、IOCをはじめ五輪に携わる全ての人々とともに、オリンピアンの私自身ももう一度五輪憲章を見直し、五輪の意義を考えてみようと思います。メダル主義や国別対抗、大会の規模やスポンサーとの関係など、今回の大会をさまざまな角度から検証し、かかわる全ての人々とともに、未来に生かせるよう、これから何をすべきか、何を形にしていくか。しっかりと考えてみるつもりです。

東京五輪はまだパラリンピックを残していますが、今回の特殊な五輪を終えて、私たちも史上最多のメダル数と浮かれるだけではなく、この色々なものが無かった五輪を振り返り、本当に必要なもの、あるべき五輪の姿とはなんだったのかを考えてみてはいかがでしょう。

良くも悪くもIOCの存在と考え方が東京五輪の延期と実施を通して世界に広まり、疑念が湧いている中で、バッハ会長やその周辺のような五輪に対する考え方は今回限りにして、パリ五輪以降の未来に、新種目の中心にいたZ世代が示したような「新たな五輪」へのアプローチが主流になっていくことを願います。






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