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専門家の指摘を「つまみ食い」する政治家たちに「あすの専門家」は務まるのか

大阪の医療崩壊を念頭に、こんな記事を書きました。

選別されるべきは、政治家ではないかと言う気もしますが、岡江さんの死から一年経っても、この国の政治家による対応に変化が見えない気がするのは、私だけでしょうか。

予測できたことが見逃されていないか

今起きている医療現場の切迫状況は、既に第3波の時に予測できた事でした。それを緊急事態宣言で回避できたと軽視した大阪府知事が、安易にコロナ病床を解除したために、今、切迫しているわけです。

ちなみに、大阪府では、2月の緊急事態宣言解除後に、確保していた病床を減らすように指示がなされたそうで、ステージに合わせて病床を増減させるという理屈は理解しますが、解除したら感染が再拡大することは当然想定されたことであり、また、病床は一度減らしたら急には増やせないものなので、バッファーを多めに取っておくべきだったろうと思います。

この記事は、「このハゲー」で議員を辞めた豊田真由子さんが書いているのですが、厚労省出身で公衆衛生学の専門家でもある豊田さんの分析と目配りが素晴らしい記事です。

なぜ、日本の病床が足りないか、なぜワクチンが遅れているのか、丁寧に説明されていますので一読をお勧めします。

さらに、こうした状況が起こりうることは、1月には十分想像できたことだと言う理由がもう一つ。専門家会議の尾身先生が、1月にこんな記事を書いています。

皆さん既にご承知のように、現在、緊急事態宣言が発出されており、日本の医療と経済は深くダメージを受けつつあります。すでに、失業率は高くなっていますが、感染拡大が収まらないと、さらに影響が広がります。また、医療では、例えば骨折や盲腸(虫垂炎)になっても診察してもらえないといった状況になっています。

そのためには、感染しても軽症であると言われる若い人が感染して、老人にうつさないことが肝心なのだというお願いです。

どうか、若い世代の皆さん、日本の危機を救う立役者になってください。きっとなっていただけると信じています。よろしくお願いします。

しかし、私が新宿で定点観測している限り、今や若者は街に溢れています。

こうした状況を予測もせずに政治家や官僚は手を打っているのでしょうか。

文科省通達のおかげで若者が街に溢れる

4月になって新学期が始まり、2年ぶりに入学式ができて、授業はリモートから対面になり、友達とも会えて、そりゃ嬉しいですよね。

こうした状況を産んだのは、文科省の通達です。

政府の新型コロナウイルス感染症まん延防止等重点措置を受け、文部科学省は2021年4月9日、大学の授業について、感染防止と対面・オンライン授業の両立という基本方針に変更がない考えを明らかにした。大学での感染事例の多くが、放課後の飲み会や部活動で起きているとし、学生の学修機会の確保に理解を求めた。

学生は大学に集まるから放課後の活動もできるわけです。

授業は対面でしろ、だけど放課後はまっすぐ帰れ、という要請が大学生の全てに受け入れられるはずもなく、それでも文科省は、この状況は大学の管理が足りないからだと言わんばかりです。

放課後の学生生活まで管理する大学は嫌でしょう。それとも大学は夜の街を監視して歩けとでも?

ようやくオンライン授業の仕組みを整えた大学側の努力(先生たちが講義内容をパワポにしたり、オンライン向けに作り替えたり、涙ぐましい努力もあるわけです)を否定するかのように、対面型に拘泥する文科省の意図はどこにあるのでしょう。

何を大事にして、どういう予測で通達を出しているのかがわかりません。

ポリティカルコントロールの主役が変化している

専門家会議の意見を聞いて行われるはずの施策も、多くは、穴だらけだったり、都合の良い読替えだったりで骨抜きにされていきます。

隙アラバ、GOTOを再開しようとしたり、総合的な判断を専門家の意見に立脚して行っているとは言えない状況です。

本来、厚労省なり内閣府の官僚が、多くの施策の方向性を決めているのが、これまでの日本的な民主主義のありようです。それは、政治家が軍を統制するシビリアンコントロールに準えることができる、官僚によるポリティカルコントロールのようなものではないかと考えます。しかし、安倍政権以降、官僚にすっかり意気地がなくなり、政治家をコントロールする気概と言葉を持たなくなったため、代わりに官僚が専門家を前に出してきたのではないかと、私は考えます。

専門家を盾にして、予算や施策に関する意見を「いいとこ取り」して、政治家へ上げるための委員会などを仕切るのが、かつての官僚の仕事でした。報告書をまとめる時に、いい具合に骨抜きにして、省庁に都合の良い意見を混ぜるのが「腕」というものでした。

ところが今や、委員会で政治家と専門家が直接結びつき、政治家が専門家の意見の「いいとこ取り」をしている。それが専門家会議や政府委員会の実態ではないでしょうか。

民主的な手立てと官僚主導

池上彰さんと佐藤優さんとの対談のなかで池上さんがこんな指摘をしています。

「官邸主導」で物事が決まり、行動の自粛を呼び掛けながら「Go To」を推進するという、ちょっと首をかしげたくなるような施策も「強行」されました。ちなみに、菅総理がずっと「見直しは考えていない」と言っていた「Go Toトラベル」は、突如2020年の暮れから一時停止となったのですが、この措置は、メディアの調査による内閣支持率の急落を受けたものであることが明らかでした。

この少し前で、専門家が前に出過ぎると佐藤優さんは言いますが、池上さんが指摘するように、委員会形式は、官邸主導であって政治家が決めていないわけではありません。

佐藤さんが専門家に違和感があると言うのは、以前のように官僚が専門家を御しきれてないことへの苛立ちのように思えてなりません。

私が最も違和感を覚えるのは、感染拡大のさ中、「専門家」と称する人たちが、何ら疑問を抱かれることなく、政治の前面に出てくるようになったことです。

官僚出身の佐藤優さんは、次のようにも述べています。

【佐藤】政治家がさまざまな課題に関して専門家のアドバイスを受けること自体、もちろん重要です。しかし、緊急の事態だからといって、本来の民主的な手立て、経路をバイパスして、何でも専門家の言うがまま意思決定が行われるとなると、話は別です。

この「民主的な手立て」とは何かというと、官僚が仕切る仕組みということではないかというのが穿ち過ぎでしょうか。

そして、霞ヶ関としては、専門家の言う通りにしない、丸呑みしないところに政治家の存在意義があると思っているわけです。

それが、いつの間にか、政治家を制御するのは、官僚ではなく専門家にシフトしているように見えるところが佐藤さんの苛立ちなのではないかと。

「あすの専門家」は誰なのか

でも、政治家は、専門家の意見に従うと言いながら、都合の良い言葉だけ取り上げ実行に移し、都合が悪くなると専門家のせいにしたがる。

なぜ、政治家は、専門家の意見を「つまみ食い」するのでしょう。

それを裏付けるようなブログが政治家から出ていました。

しかし、政治家が行う物事の判断は、それだけではできないのです。政治家は学者などの様々な意見を集約し、国民ないしは選挙民のためにどういった結論が正しいか、バランスよく判断すべきなのです。だから専門家の意見と政治家の判断に差異が出てくるのです。

地方議員のブログで、2015年のものですから今回のコロナ禍とは関係ないように思えますが、考え方は一緒ではないでしょうか。

専門家の意見を鵜呑みにしないというのは一見すると立派なものに思えますが、それは確かな判断に基づいていることが裏付けられてこそでしょう。人気や支持率に右往左往するような判断で、専門家の意見を「つまみ食い」して都合の良いところだけ利用するのは「判断の差異」というものではないと思います。

このブログでは、同様の意見が載っていたという公明新聞のコラムを転載しています。それは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一部を引用して、専門家の判断は「過去の出来事に対する判断=昨日のもの」であり、未来に対する判断を行うのは、明日の専門家である政治家なのだという内容で、「政治家は国内外の難局を打開する「あすの専門家」でありたい。」と締めています。

政治家は「あすの専門家」であってほしいと私も思います。でも、そのためには、昨日の専門家の意見を判断する大局観と哲学が必要なのではないでしょうか。専門家の意見が「昨日のもの」だと判断するには、明日を見通す力と最悪を想定する力が求められます。未来への道は、今日から始まります。そして過去に学ぶことで未来を予測することができます。

過去に学ばず、未来を見据える大局観や哲学が感じられない政治家に、「あすの専門家」として期待できるでしょうか。

新しい人が出てくるのを期待するのか、現場で手を尽くすしかないのか。

ひとりひとりが「あすの専門家」となるように真剣に考えて行動するしかないのかもしれません。

最後に、その辺りを通説に批判した記事をご紹介したいと思います。都立松沢病院の齋藤名誉院長が院長在職中に書いていたコラムです。

感染がここまで拡大すれば、押さえ込むのは至難の業である。国民に強いる行動制限も厳しくなり、要する時間も長くなる。ひとつの対策が短期的成果を上げない可能性も大きくなる。そういうとき、目先の利益しか考えられない政治家、科学的な思考の出来ない行政が打ち出す感染防護策に、納税者は従うだろうか。みんなが従わなければ感染コントロールは出来ず、感染拡大がさらに進み、対応はさらに難しくなる。今日、日本の政治家には心に響く言葉がない。言葉が心に響かないのは、彼らの言葉に誠意や真心がこもっていないからだ。虚しく具体性のないキャッチーなだけのフレーズを連呼するときはカメラ目線で見栄を切る。納税者の反発を受けそうな対策を語るときは、「専門家のご意見もうかがって」、「各自治体の責任で」、「政府に対応をお願いしないと」と、逃げをうち、責任を引き受けようとしない。

政治家への手厳しい言葉が並んでいますが、斎藤先生の目から見れば、糾弾すべきは政治家だけではないようです。

三つ目の課題は、厚労省、東京都、保健所、一番身近なところでは、都立病院をマネジメントする官僚レベルまで、すべての行政機構が機能不全を露呈したということです。これは、過去10年以上にわたってこの国に起こった政治の劣化と密接に関わっていると思うのですが、この話をし始めると終わらないので詳細は別の機会に改めて論じたいと思います。松沢病院では現業職員や病院のロジスティクスを担う民間企業の職員は献身的に働いてくれましたが、都庁の病院経営本部や松沢病院の事務系管理職が、コロナウイルス感染との戦う現業職員を支えてくれていると実感したことは、今日まで一度もありません。

またワクチンについても現場からの声をあげています。

松沢病院でも3月22日現在、ワクチン入手の目処はまったくたっていません。都庁の病院経営本部は、ワクチンについては仕切らないし、仕切る気もないと早々に伝えてきました。日経の記事の終わりには、「基本型施設であるかどうかや、コロナ患者の入院患者数などいくつかの指標を踏まえ、総合的に判断して順番を決めている。都立だからと優先するわけにはいかない」という都庁のコメントがついています。この他人事のようなコメントや指示は、直接の効果として都立・公社病院職員のモティベーションを下げただけでなく、間接的には、官僚機構が、病院のような事業体経営のセンスを欠いているということを証明していると私は思います。

このコラム以外にも、精神病院の現場からコロナ対策への批判などを包み隠さず書いています。お読みになることを勧めます。




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