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自民党「日本国憲法改正草案」読んでみた その4:第3章 国民の権利と義務

しばらく外伝ばかり書いてましたが、本章に戻りましょう。

第1章天皇、第2章安全保障と来て、第3章は国民の権利と義務です。

なぜ現行憲法では受動態なのか

現行憲法は、こう始まります。

第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。 

これが自民党案ではこうなります。

第 十 条  日 本 国 民 の 要 件 は 、 法 律 で 定 め る 。

これはまあ、翻訳調を改めるという感じがします。

でも問題は次です。

第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。 

これがこうなります。

第 十 一 条 
国 民 は 、 全 て の 基 本 的 人 権 を 享 有 す る 。 こ の 憲 法 が 国 民 に 保 障 す る 基 本 的 人 権 は 、 侵 す こ と の で き な い 永 久 の 権 利 で あ る 。

この受動態を能動態に書き直したことがどういう意味を持つのか。

これを考えるために前振りしてました。

そうした、書き言葉としてのテクニックとして、GHQの創案者たちは受動態を使ったのではないかと推察されます。

日本国憲法の受動態であることが、その読みにくさにつながっているという話なのですが、ではなぜ受動態を使うのかというと、そこに隠された意図があると思うのです。

つまり、行為者の存在です。

英語圏では、この基本的人権の付与は、天から(ほぼ神から)与えられたとする「天賦人権説」を取ります。神から人へ「与えられる」ものなのです。

「天賦人権説」を否定する自民党草案

ところが、この天賦人権説が、自民党では評判が悪い。

ことの発端は自民党の片山さつき議員が去年12月7日に「天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え」という発言をしたことでした。

この片山発言だけではなく、日本国憲法改正草案Q&Aのなかで

また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

と明言しています。

先に挙げたアゴラの記事では、この問題を誤用と誤解の混同としています

「天賦人権論」という用語を、
片山議員は「 A) 権利ばかり主張して、義務を省みない姿勢 」という意味で。
片山議員への批判者は「 B) すべて人間は生まれながらに自由・平等で幸福を追求する権利をもつとする思想 」という意味で。
自民党憲法改正草案では「 C) 「神の下の平等」という観念を下敷きにした人権論 」という意味で使っているわけです。

片山さつき議員の用法は「間違い」、一般的にはBで自民党草案はCで使っている。確かに、現行憲法は受動態であり、そこに神の存在が意識されている。でも日本はキリスト教圏ではないので、Cはおかしいから書き直しているというわけです。

ただ、問題は、天賦人権論だけではありません。

自由と権利を保持するのは誰か

自民党草案では、基本的人権は「侵すことができない永久の権利」として、「国民皆が享有する」ものとなっています。では、この権利は誰から付与されたものなのか。それを考えるには次項を読む必要があります。

第 十 二 条 
こ の 憲 法 が 国 民 に 保 障 す る 自 由 及 び 権 利 は 、 国 民 の 不 断 の 努 力 に よ り 、 保 持 さ れ な け れ ば な ら な い 。 国 民 は 、 こ れ を 濫 用 し て は な ら ず 、 自 由 及 び 権 利 に は 責 任 及 び 義 務 が 伴 う こ と を 自 覚 し 、 常 に 公 益 及 び 公 の 秩 序 に 反 し て は な ら な い 。

当然これは、現行憲法の次の条文と対応しています。

第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

現行憲法で「保持しなければならない」とあるのが、自民党草案では「保持されなければならない」と、今度は、自民党草案の方で「受動態」になっています。

日本語で受動態になるときは「立ち位置」を考える必要があります。

現行憲法では、国民の不断の努力によって「保持しなければならない」のが「自由と権利」であり、それを「憲法が国民に保障すること」を保持しなけれなならないのです。つまり、保持しなければならないのは憲法と憲法によって規定される主体ということになります。

自民党草案では、国民の普段の努力によって「保持されなければならない」のが「自由と権利」であり、それは憲法が国民に保障するものですが、保持するのは「国民」である、という文章になります。

自由と権利を保持する主体が全く異なるのが、この二つの文章なのです。

憲法は誰を規定するのか

この点については、人権とは何か、憲法とは何かということを考える必要があります。

そこで、自由人権協会というサイトを見てみましょう。

一つ目は、憲法とは何か、について根本的な理解が間違っていること。憲法は、「権力を縛る鎖」です。「国民を縛る鎖」ではありません。
二つ目は、人権とは何か、についても根本的に理解が間違っていること。人権は、憲法によって国から恩恵としてあたえられるものではありません。人間であることによって、すべての人が普遍的に、当然に持っている権利で、国家、政府等の公権力が侵してはならないものです。

まず、憲法を守るのは誰かというと、実は、国民ではなく、為政者なのです。

憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。
法律の多くは私たちを縛る。憲法は私たちの権利・自由を守るため国を縛る。法律と憲法とでは、向いている方向が逆と考えるとわかりやすいでしょう。

ここが理解されて居ない憲法論議が見受けられるような気がします。

その最たるものが自民党草案なのではないでしょうか。だから推進派の中に天賦人権説に対する誤用をするような議員がいたり、この記事で書いたように憲法の本質を知らない議員がウヨウヨしているのではないかと心配です。

一番驚いたのは自分の思い描く国家像や、国の理想像を書くものが憲法だと思っていた議員が多かったこと。だから憲法草案に「家族を大切に」「皇室を大切に」みたいな話を入れ込もうとしていたんですが、それは違う。憲法は宗教本でも思想本でもない! 憲法というものはなんなのかを理解していない人たちが国会議員に多いんだと衝撃を受けました。

そして、憲法に対する誤解が最も強く現れているのが、この「国民の権利と義務」という章ではないかと思います。

天賦人権説に対する国賦人権

それは、権利と義務を考えるときに、誰が誰が守るものか、誰が誰に付与しているものかという原点が間違っているからです。

実は、「人権」は万国共通の理念と思われがちだが、日本には欧米と異なる人権理念がある。明治の評論家山路愛山は、欧米とは異なる日本の人権があることを早くから指摘していた。経済学者の河上肇は日本の人権を天賦人権ではなく「国賦人権」だと言った。二人の言っていることは要するに、人権が国によって「恩寵」として与えられている、ということだ。

この「国賦人権」が、戦前ならば天皇の元での四民平等であり、戦後であっても、底流に流れ続けている「日本独自の人権思想」なのでしょう。

だから、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」と言いつつも、第97条を削除できるのではないでしょうか。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この条項が示す基本的人権への敬意が、条項の削除とともに失われているのが自民党憲法草案のような気がしてなりません。

日本国憲法ができたときに、文部省が出した「あたらしい憲法の話」では基本的人権をこのように書いています。

くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけたゞれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き/\としげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、たゞ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。

「自由と平等」をようやく自分たちのものにした喜びというものが感じられます。

「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の違い

しかし、自民党草案では、それは無償で与えられたものではないとでも言わんばかりです。だからこそ、権利に対する責任と義務を問うてくるのです。

国 民 は 、 こ れ を 濫 用 し て は な ら ず 、 自 由 及 び 権 利 に は 責 任 及 び 義 務 が 伴 う こ と を 自 覚 し 、 常 に 公 益 及 び 公 の 秩 序 に 反 し て は な ら な い 。

自由も権利も人間が人間として生まれたからには「持って居て当たり前のもの」でなければなりません。それが自由主義社会であり立憲主義国ではないでしょうか。

「公益及び公の秩序」をことさらに述べる憲法というのは、先ほどあげた縛る相手を間違えていると言えます。

「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはな
らないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。

こうした「公の秩序」の保全のためには憲法ではなく刑法や民法があります。「公共の福祉」という文言が曖昧であるという理由で改めるために、使って良い言葉ではないでしょう。

これについては、憲法調査会での参考人のコメントとして次のようなものがあります。

・公共の福祉とは、議会に対して権利と権利の相互調整を行う立法を求める
ものであって、国民に対して公共の福祉を侵害しないことを求めているも
のではない。すなわち、公共の福祉は、人権を制約する際の国家を制約す
るルールであって、国民を制約するルールではない。(阪本昌成参考人)

憲法が誰に向けてのものかを理解していれば、この「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」という言葉には置き換えないだろうということが、この専門家の定義からもわかるかと思います。

人権とは何か、という議論で、この章を捉える向きもありますが、それ以前に、憲法とは何かを考えれば、自民党草案の持つ「誤用」「誤解」「無理解」などが見えてくるのではないでしょうか。

この先長い条文の全てについて考えるのは疲れますので、ここらでやめにしておきたいと思います。またいつか思いついたらばやるかもしれませんけど。

是非、日本国憲法について読んでみて、自民党草案と比べてみてください。そして、現代的な改憲及び日本国憲法の22世紀対応を考える議論を進めていただき、その上で自民党草案に基づく改憲だけはないなあ、と考えていただきたいと思います。

こういうのを参考にしてはいかがでしょう。

「あたらしい憲法の話」は読んでいるとなんだか切なくなるような文章があります。これが文部省から出されたものだというところに当時の政治家や役人の誠意とか希望とか、いろんなものが感じられます。

みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
 こんなりっぱな権利を與えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。國ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。

言葉は大事だなと思います。

こちらも読んでみてください。

サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。