書かれることのない映画時評の導入。あるいは、「故郷」の発見。

 ある映画を見て、これは「原風景=故郷」についての映画という側面がある作品だなと思った。そう思ったのは、とても個人的な感慨だから、映画の時評にこのことを書くことはないだろう。これは書かれることのない時評の導入部分なのである。

 僕の父は一人っ子だった。さらにいうと祖母の伯父の家から、もらわれてきた養子であった。ややこしいのは、祖母がそれを父にもひた隠しにしていたことだ。詳細は省くが、父が大学進学する折に祖母は、「養子」となっている戸籍を見せた上で、「でもあなたは私が産んだ子だから」と説明したという。もちろん父も、その説明は「苦しい」と思っていたわけだけれど。祖母は、ガンで死ぬ折、枕元で様子を見ていた孫の僕だけに「私は腹膜が悪くて子供ができなかったので、兄のところから子供をもらったのだ」と明かしたのだった。
 こんな経緯があったから、祖母の実家の存在感は大きかった。僕の子供時代にはもう実家を守る人はいなくなっていて、限られた親戚だけのつきあいになっていたが、祖母が語る「馬鞍」の家の話は、一種の家族の神話のようなものだった。
 祖父母は満州から昭和21年に引き上げてきた後、祖母の実家に身を寄せている。食糧不足の時代だったが、在郷地主としてそこそこ土地を持っていた祖母の実家は、暮らしやすい場所だったのだろう。囲炉裏の周りに銘々膳を並べて食事をしていたと、よく父は語る。しかも、「お客さん」の待遇だったから、父は祖父(祖母の父)の隣という上座に座っていたという。
 その頃、父が懐いていたのがAさんという年上の従兄弟だった。今思えば、Aさんは父の兄にあたる人物で、そのこと込みで父を気にかけていてくれたのかもしれない。僕も子供のころから何度か「Aさんという人は賢くてねぇ」と父から当時の思い出を聴かせてもらったことがある。
 その後、祖父母が静岡に職を見つけて引っ越して後、Aさんとは疎遠になってしまって、僕が父から話を聴かせてもらったころは、Aさんは完全に「思い出の中の人」だった。
 それが2011年に祖母が亡くなったことをきっかけに、Aさんとの交流が復活することになった。Aさんもとても元気だった。
 その後、電話はハガキで連絡をとりあっていたAさんだが、祖母と平行して病んでいた母も2012年亡くなり、父は実家で一人暮らしとなり、そして2014年にAさんに会いにいくことが決まった。
 僕と妹を交えた3人で、仙台まで行って一泊して、翌日、Aさんの住む石巻市馬鞍へと向かった。Aさんとの再会はとてもおだやかなもので、楽しい時間だった。一人っ子であった父は「お兄さん」とAさんのことを呼べることがとてもうれしそうだった。
 この短い旅のどこかで父が言ったのだ。
「僕のふるさとは、ここだったんだなぁ。来てみてわかった」
 馬鞍に暮らしたのは小学校上がるか上がらないかぐらいの時期の2年ほど。でも、その体験こそが「故郷」と呼びうるなにかを父の中に残したのだろう。そこには養子であること、一人っ子であることと折り合いをつけて生きてきた父の思いの断片も含まれている。そういうことはある。

 映画は、映画の監督が幼少時に疎開していた地域の印象が反映されていたと思しき内容だった。さらにそこに子供から見た父親の印象、母親の印象が重ねられている。
 たぶん一定の年齢になると故郷へと心が還っていく人がいる。映画監督も父と同年生まれだから、おそらく、そんなふうに故郷へと心が還る瞬間があったのではないか。その印象を映画に焼き付けたのではないか。
 もちろんこれは僕の想像であって、正解はわからない。でも映画は、そこが「故郷」でなくては成立しない内容だった。60年以上も前に、わずかに暮らしただけの土地が、故郷になることがある。2014年の父の言葉は、2023年の映画に宿る肌触りを実感するための、水先案内人のような役割を果たしてくれた。

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