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うつ病の私が見ている世界 第5話

 翌朝。
 寝巻き姿の夫が、
「これ、ここ置いとくね」
 小箱をキッチンカウンターに乗せた。
 後頭部だけ、天を突くような寝癖だった。
「何、これ」
 手を止めて、小箱を覗く。
 今朝はもう、すでに服薬を済ませていた。
 昨夜あんなことがあっては、幻覚でも幻聴でも、見えたり聞こえたりする方がまだマシというものである。
 小箱の中には、電子タバコが一つ、専用タバコが二箱納められていた。
「タバコ?」
「うん、俺が前に使ってた電子タバコ。後、メビウス二箱」
「いらないよ」
「いや、今は持っておいて。その、今は洋子さんが生きる方が、何よりも大事だ」
 夫が、まっすぐ私を見つめて言った。
 小箱は、いつか私が夫にあげた試供品のプロテインの空き箱だった。
「ごめんね」
「こっちこそごめん。あのさ、近いうちに、一度俺も〇〇心療内科に行くよ。洋子さんについて、主治医の先生から、いろいろ聞かせてもらえたら嬉しい」
 唇を噛んで、私は小箱を受け取った。
「ありがと」
「あのさ、老後はさ、南魚沼に安い家を買ってさ、夫婦で、東京と行ったり来たりしながら生活できたらいいな」
 呟くように夫が言った。
 これが初めて、夫と交わした『老後のこと』でもあった。
 ふんわりしすぎて、経済面も健康面もほったらかした、夢ばかりの意見だったが。
 私は、
「南魚沼もいいけど、草津温泉で、揚げまんじゅうを揚げるパートをするのも良いな」
 東京生まれの夫と茨城生まれの私は、雪国の冬を知らない。
 洗濯を完了したメロディが洗面所の方から聞こえて、飼っているセキセイインコが餌を求めて呼び鳴きをしている。
 朝風呂派の夫が、シャワーを浴びるために浴室に入って行った。
 入れ替わりに、制服姿の長女がキッチンへ入ってきた。
「朝から親がラブラブしてて、ちょっと気持ち悪かったです、まる」
「あんた、聞いてたの?」
「聞いてたも何も、昨日の大騒動も聞いてたヨォ」
「えー!ごめん」
「音だけだけど、ヤバくてベッドから出られなかったし」
 長女はからりと笑って、
「やっぱさ、ママ、薬を飲んだ方が良さげっぽいね」
「うん」
「タバコもらったの?」
「ゲッ、バレた?」
「別にいいんじゃない?だってママ、未成年じゃないし、もうおばさんだしブフッ」
「ちょっと笑わないでよ」
「だって昨日、死にたくなったらタバコ吸うって怒鳴ってたじゃん。ママ、タバコ程度で生き延びられるなら、吸っていいと思うよ」
 真面目に長女が言った。
「悪いママでごめんね」
「え?なんで」
「ママなのにタバコ吸って」
「それさ、昭和生まれの考え方なんじゃない?別に未成年でなければ個人の自由だと思うけど。母親だって、個人でしょ。うち、パパだって吸ってるじゃん」
 スコン!
 頭の中で、何かの栓が抜ける音がした。
 娘たち世代にとって、父親と母親はごくナチュラルに、対等なんだ。
「新人類だわ」
「何それ」
「でも、パパの前では絶対吸わない」
「なんで?」
「好きな男の前で、タバコなんて吸えますかっての」
「あー…」
 次女と三女も起きてきた。
 賑やかな朝が始まった。

 喫茶店は数年前に全面禁煙となった。
 愛煙家の主任による分煙案もなくはなかったが、全面禁煙とした方が行く行くは売り上げに貢献する、というオーナーの鶴の一声で全面禁煙となった。
 今でも時折「ここ、タバコ吸えますか?」と店を訪う人もいあるが、喫煙家の皆さんはどんどん喫煙場所を失っているのが現状だ。
 たまたま主任の出勤時間と、私の退勤時間が重なって、事務室裏の物干しスペースで喫煙する主任に退勤の挨拶をしたのだった。 
 喫茶店を経営する姉妹は、姉が店長、妹が主任で、数年後には六十代になる。
 事務室は喫茶店の奥にあり、さらにその外に物干しスペースが設けられていた。年代物の洗濯機が風雨に晒されながらも、今日まで十数年、故障ひとつなく稼働し続けている。人も家電も、繊細で細やかな機能をたくさん搭載するよりも、無骨で元気だけが取り柄な方が、うまく生きていくものなのかも知れない。
「内海ちゃん、話ってなーに?」
 主任が言った。
「ごめんね、吸いながらで」
「いえ、お気になさらず」
 硬派な主任は、今でも紙巻タバコを愛飲している。
 若い頃は、埼玉の川越あたりで、暴走族の七番手の彼女だったっぽい感じの人で、一人称は「アタイ」が似合いそうな女性だ。
 懐かしい座り方をし主任が、上を向いて煙を吹いた。
「実は私、うつ病になっちゃったみたいで」
「はぁーー!?」
 主任が咽せた。
「えっ、大丈夫?え、店のことで?」
「いえ、家庭の、義理の実家とのことで」
「あ、原因はわかってるんだ」
「それで一応、お知らせしておこうかと」
「おおお…」
 主任がタバコをもみ消して、
「シフト減らした方がいい?」
「いえ!むしろ減らさないでください。楽しいんです、ここ」
「ご主人がシフト減らせとか…」
「それもないです。あの人、私が喫茶店のパート好きなの知ってるから。それに、ここで働いてると元気になれるんです」
「よかったー!今、ほらずっと人手不足じゃん。内海ちゃんすごく大事な戦力なんだ」
 すごく大事な戦力!
「だから、まだまだここで働かせてください」
「もちろん!」
「よかった。辞めろって言われるかと…」
「内海ちゃんの義理のご両親、大変そうだもんね」
 ふいに主任が言った。
「仕事始めたばっかの頃、なんかよく店の中を覗きにきてた爺さんとおじさんがいたんだけどさ、あれ、内海ちゃんの義理のお義父さんと、ニートの義兄さんでしょ」
「げっ、来てたんですか」
「なんか常連が言ってたよ。義理の実家の近所の爺さん」
 世間は、世間はなんと狭いのか。

 私がシフトを減らしたくないのには、明確な理由があった。
 まだ〇〇心療内科に通院し始める前、家族で伊豆は土肥温泉に二泊三日の旅行をした。 

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