うつ病の私が見ている世界 第3話
松永医師の診察が始まった。
「義理のお母さんは、なぜあなたにそんなことを言ったのだろう?」
松永医師が、ボイスレコーダーを私に向けた。
「義母は私が嫌いなんです。私の育ちが悪いから」
「育ちが悪い?」
「私の両親は高卒で、私もずっと田舎の公立、その後、事情があって都内のギャルがたくさんいる元気な高校へ行って、神奈川の普通の私大に行きました」
松永医師がボイスレコーダーを口元に、
「両親は高卒、本人は茨城の公立、都内私立、ギャルたくさん、神奈川の私大卒。ふむ。別に育ちが悪いとは思わないけど」
「義母は、幼稚園から大学まで一貫校の名門女子校を出た子をお嫁さんにしたかったんです」
「でも、自分の息子が選んだのは、あなたなのにねぇ」
「そうなんですけど…学歴をすごく重視する人で」
ボイスレコーダー。
「義母、学歴重視。幼大一貫名門女子校卒の嫁、欲しい」
端的にまとめられると、思わず笑いそうになる。
しかし松永医師は至極真面目に、
「あなたのご主人は一人っ子?」
「いえ、義兄さんが一人います」
「その義兄さんとご主人はどんな人なの」
「義兄は高齢のニートで、夫は会社員です。優しいです。N大卒です」
「N大。なんでも学部あっていいよね。義兄さんは?」
「千葉だったか埼玉の奥の方の、カタカナと漢字が混ざった大学に三浪で」
「ふむふむ。どちらもあまりお義母さんの理想には遠そうだけど」
「義兄は失敗作と言っていました。夫の方は、立派になったって」
「あ、そう」
ボイスレコーダー。
「夫、二人兄弟、兄、失敗、夫、N大、立派、義母」
なんかひどい。少しだけ義兄が可哀想に思えてくる。あと、N大は何も悪くない。
「これに対して、あなたの夫は何ていってる?これというのは、義母さんの発言に対してだけど」
「できれば聞き流してって。義父も同じです。義父が、義母は昔から言葉がキツくて、義兄はああなってしまった。そういう人だから、気にしないで聞き流してと」
「聞き流せって言われてもねえ。夫や義父は扱いに慣れてるから聞き流せたんだろうけど、無理だよね。聞き流せないから、ここに来たんでしょうに」
ボイスレコーダー。
「夫、義父、義母の言葉は聞き流して」
白い診察室には、一枚の絵も掛けられていなかった。
大きな窓から、白いカーテン越しに外に光は入ってくるが、窓の外にあるはずの景色の影はみあたらない。
ふと、大きなデスクの上に置かれたガラス製のペーパーウエイトが目に入る。
松永医師が私の視線を追って、問診票に目を走らせた。
「フジリンゴ族だったかな。あなたの作品」
松永医師が言った。
「義理のお母さんも、ずいぶんなことしたねえ」
「はい」
ペーパーウエイトは、透明のリンゴのフォルムをしていた。
フジリンゴ族。
そして精神科医というものは、患者の些細な動きも見逃さないのだと、観念した。
「燃やされたんです」
「燃やされた」
「夜中に、庭で。近所からクレームとか来なかったんでしょうか、そんな夜中に焚き火して」
「あなたの作品を、勝手に燃やすのは、義理のお母さんでも、いや、誰にだって許されるものではないよね」
私は頷いた。
「私がそれを知ったのは、朝になってからでした。義母からの連絡で、これであなたもまともな母親になれるでしょうって、くだらない粘土のおもちゃ何て作ってないで、もっと良い母親になりなさいって」
沈黙。
でも、不思議と、診察室でも沈黙は、羽根のように軽い。
ここでは沈黙も、もしかしてオート機能が付いているのだろうか。
「ふむふむ」
松永医師が沈黙を破って、
「じゃあ。お薬を出しておくね。二週間分。まずは朝晩、一日二錠。次回の予約は受付で取ってください。でももし、お薬で何か不都合が出たり、足りなくなったりしたらすぐにおいで」
礼を言い、会釈をして診察室を出る時、松永医師はボイスレコーダーに何事か吹き込みながら、軽く右手を挙げた。診察室の扉が閉まり、再び私は、奇妙な油彩画と黒革ベンチの世界に戻ってきた。
丸メガネの老女が、私が黒革のベンチに腰掛け、トートバッグを膝に乗せるまでの一部始終を見守っていた。
相変わらず、等間隔で黒革のベンチに患者は腰掛け、油彩画のユニコーンはケバケバしい色彩を放っていた。
「内海さぁん」
受付で、丸メガネの老女の声。
「今日ね、お薬出てるから。朝晩一錠づつ。二週間分。でも、途中で足りなくなったらいつでも電話してからきてくださいね」
靴に履き替え、ドアに手を掛けた。
ドアは重く、ぴくりとも動かない。
「ドア」
丸メガネの老女が言い、
「帰りは手動。重いから、グッと開けて」
丸めた拳を、グイグイと推し仕草をしてみせた。
通りに出ると、快晴だった。
一体あれは、なんだったのだろう。
カウンセリング?診察?何か効果があったのかな。
松永医師の診察は10分足らずで、想像していた心療内科とは全く違った。
丸メガネの老女、異彩を放つ油彩画、真っ白な診察室の、透明なリンゴ。
自転車は風を切って走った。
そのまま駅前の薬局へ行き、処方箋を渡すと、すぐに薬が処方された。
「とても弱いお薬ですから。あまり深く考えず、スッと飲んで大丈夫ですからね」
同世代くらいの、髪の長い中年薬剤師が言った。
ワイパックス0.5錠。14日間分。
「更年期の市販薬より、だいぶ安いんですね」
「今はまだ、一種類だけですからね」
「これから増えるんですか?」
「いやっ、それは、人それぞれですね」
カウンターの奥で、年配薬剤師がこちらを伺っている。
「でも、あまり気にせず飲んでください。市販薬よりも軽いですから」
気まずそうに言った。
ワイパックス0.5錠。
別名ロゼパラム。
検索してみると、『ロゼパラムはベンゾジアゼピン系の抗不安薬である。持続時間は中程度で排出半減期は約12時間。適応は神経症や心身症における不安・緊張・抑うつである』とあった。
服用してみた。
私は、うつ病なのだろうか。
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