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「神様の言うとおり」は神様に任せていない

子どもとお風呂に入って、どっちが先に体を洗うか子どもに聞いた、

「どっちが先に体洗う?」

そしたら、

「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な・・・・・・・」

僕たちが子どもの頃よくやったアレだ
そして子どもが洗うことになった。

これからは特に自分が主体的に決めないと生きていけないと思っている僕は例の
「か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」
は好きでは無かった。

でも、このお風呂で感じたのは

「神様の言うとおり」と言いながら神様に任せていない

というコト

【理由】ーーーーーーーーーーーーーー①「神様の言うとおり」を選んだの自分の決断である
②潜在的に自分の意に沿わない場合オプションを追加して自分の意に沿わす(例「あっ・ぷ・ぷ・か・き・の・た・ね」)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

結局、神様の名を借りて自分が決断しているし
「どちらにしようかな」の作業をしながら潜在的に自分がどうしたいのかを確認する時間生み出すと同時に、思考し続けている。

誰かに何かを相談したとき、そっと後押しをしてくれると行動を起こしやすい。その誰かが”神様”になっただけ。神様は自分の代弁者として登場させて、作業をしながら思考をする「神様の言うとおり」は自分が判断するツールとして考えれば、主体的な決断だと思った。


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