自分の失敗や悲しみを、二次災害を引き起こす理由にしてはならない。
村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)という小説のなかに、こんな言葉がある。
「幾つかのことに気をつければそれでいいんだよ。まず女に家を世話しちゃいけない。これは命取りだ。それから何があっても午前2時までには家に帰れ。午前2時が疑われない限界点だ。もうひとつ、友達を浮気の口実に使うな。浮気はばれるかもしれない。それはそれで仕方ない。でも友達までなくすことはない」
このエピソード、村上さんの小説のなかでも、なぜか、僕にとってすごく印象に残っているのだ。皮剝ぎボリス、と双璧なくらいに。
僕自身は、浮気、という形でこの言葉を噛みしめたことはないのだけれども、気分の浮き沈みがけっこう激しい人間なので(しかも、その原因の大部分は「気にしすぎ」か「自ら仕掛けたギャンブルに負けたこと」なのだ)、最後の「友達を浮気の口実に使うな」以下の部分を、落ち込んでいるときに、いつも思い出して自分を戒めているのだ。
人間誰しも、生きていれば、失敗することもあれば負けることもある。恥ずかしいことをやってしまうこともある。
それはとても悲しくて悔しいし、ときには、自暴自棄になってしまいそうなこともある。
半世紀くらい生きて、わかってきたことがある。
最初の失敗は、大概、なんらかの方法でリカバリーできるのだ。投資やギャンブルの失敗は、絶望的な気分をもたらすが、突き詰めれば、「金が減った」に過ぎない。
仕事の失敗はつらいが、多くの場合は、自分で思っているほど、他人はそれを重く考えてはいない。まあ、誰だって失敗することはあるよな、というくらいのものだ。「絶対に失敗しない人」というのは、テレビドラマの中にしかいない。
それらは大きなダメージではあるが、早々に対応すれば傷を浅くすることや後の成功や改善で上書きできる。
だが、その最初の失敗で、ヤケになってしまったり、憔悴したまま何かをやろうとしまったりして、人は、多くのものを失ってしまう。
ギャンブルに負けるヤツは愚かではあるが、それだけで見捨てられる人は、実はほとんどいない。負けっぷりのいいヤツは、むしろ、みんなから尊敬されることもある。
居場所を失くすのは、ギャンブルに負けたことを理由に暴れたり、周囲に当たり散らしたり、借金をして迷惑をかける人だ。
つらいことがあった、という人は責められないが、それを理由に、酔っ払って他者をなじったり、暴力をふるったり、しょっちゅう死をちらつかせたりする人は(うつ病などの場合は除外せざるをえないが)、敬遠されても致し方ない。そういう行動は、やる側にとっては「一時の気の迷い」でも、やられた側にとっては「ああ、こういう人なんだな」という決定的な印象になる。
いたたまれないからといって、校舎の窓ガラスを割りまくったり、車で暴走したりしてはいけない。
株が暴落しても、競馬に負けても、恋人に振られても、上司に嫌味を言われても、それだけでは、人は致命的なダメージを受けない。もちろん、大概は、という注釈はつくけれど。
落ち込んでいるとき、苛立っているときには、「自分はこんなにつらい、悲しいのだから、このくらいのことはしても良いはず」だと思い込みがちだけれど、そんな理由で暴走した車に自分の子どもが轢き殺されたら、納得などできるわけがない。
最初の失敗をしたとき、最初につらいことがあったときこそが、大事なのだ。
「浮気はばれるかもしれない。それはそれで仕方ない。でも友達までなくすことはない」
「金はなくなってしまった。でも、友達や大切な人までなくすことはない」
「自分はもう立ち上がれないかもしれない。でも、無関係な他人を巻き込む可能性のある粗暴な行動はやるべきではない」
極論すれば、金も、恋人も、仕事も、信頼も、最初の失敗で失った分くらいは、たいてい、取り戻せるか代替になるものを手にすることはできる。だが、そこで自暴自棄になってやってしまって失ったものは、それで終わりだ。
大事なのは、最初の失敗の時点で踏ん張って、二次災害を起こさないこと。
偉そうに書いたけれど、これは、僕にとってはものすごく難しい。わかっているのに、自分の苛立ちに、いつも負けそうになる。最初の失敗の原因をつくっているのは、たいてい、自分自身なのに。
羞恥心に駆られながらも、こんなことを書いているのは、僕がこれまでにやってしまった失敗を、後世の人たちに少しでも活かしてもらいたいからだ。
「もうダメだ」とヤケになりかけたときに、思い出してほしい。いま、その瞬間こそが、本当の「勝負どころ」であることを。そういうときに、切り替えられる人なのか、自分が試されているということを。
見てほしくないところほど、みんな、ちゃんと見ているものなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?