Spinoza Note 54: 持続 duratio

ひどく抽象的に聞こえるが、定義5は持続 duratio を説明する。英語だと duration だ。何らかの状態が続くこと、およびその持続時間を意味する。

V. Duratio est indefinita existendi continuatio.
EXPLICATIO
Dico indefinitam, quia per ipsam rei existentis naturam determinari nequaquam potest, neque etiam à causâ efficiente, quæ scilicet rei existentiam necessariò ponit, non autem tollit.

工藤&斉藤訳:
定義5. 持続とは、存在の無限定な継続のことである
説明. 私は無際限な継続という。なぜなら存在の継続は存在するものそのものによっては決して限定されないし、また動力因によっても限定されてないからである。つまり動力因はものの存在を必然的に定立するが、除去することができないからである。

高桑訳:
定義5. 持続とは、存在の無規定な継起のことである。
説明. 私が無規定というのは、存在の継起は、けっして存在しつつある事物に固有な本性によって規定されえないものであるし、同様に、また作用因によっても規定されてないものだからである。なぜなら、作用因は事物の存在を必然的に定立しはするが、それを除去するものではないからだ。

なぜここで持続を定義するのかということがわからない。工藤&斉藤の解説を頼りに考える:

「存在の無限定な継続」indefinita existendi continuatio とは、神の本性上の無限と異なり、人間がただその限界を知らないという意味の無限であり、無限の延長を意味する。「デカルトの哲学原理」第2部定理4を参照。

工藤&斉藤

わからない。畠中も解説を書いているが同じような内容だ。高桑訳の存在の継起が「存在しつつある事物に固有な本性によって規定されえない」を考えてみる。「作用因によっても規定されてない」とあるから、然るべき理由なく、いわば惰性で続くもののようだ。「除去するものがない」から淡々と存在し続けるものについて語っているように聞こえる。これが後でどのような文脈で用いられるのか。

これまで読んだ内容では理解できなかったので、後から述べられることを先読みした。どうも、これは死後、精神が残ることを言っている。死んだ後、どのくらい続くかは不明だが、しばらく魂が残るという説らしい。なぜそうなるかというと、人が生まれてくるとき神が関与するが、死んだとき無視するからだ。「除去することができない」というのはこのことをいう。

この世にいないことを関知しないから、特定の誰か、たとえば私が死んだということを神は知らない。だから「鈴木一郎が生きているか?」と神に問うと「はい」と答えるが、「鈴木一郎が死んだか?」と問うたとき無言のままである。「いいえ」という答えがないのだ。生きていることを確認できず、死んだという事実を知らない。なんだかわからないが面白い理屈だ。

ということから最初に戻ると、持続とは死後、魂がしばらくこの世に留まることである。それがどのくらい続くか不明なので、「存在の無限定な継続」という。「人間がただその限界を知らないという意味の無限」であって、もしかしたらどこかで終わりがあるかもしれない。そのときは魂も消える。

しかし工藤らの解説で気になる点がある。「無限の延長を意味する」という箇所だ。延長とは物について使われる言葉ではないか。少し考えると、これが物と心を等しく扱う Spinoza の理屈だとわかる。物は保存される、形を変えても。そうであれば、心(精神)も保存されるはずだ、形が変わるかもしれないが。そういう流れではないか。魂の不死を言いたいのではなく、物と心の対称性を仮定するなら魂も保存されるはずという推論である。根拠のない期待から突拍子もないことを言い出す人ではない。理詰めで考えて出てきた結論だ。

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