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指導言を意識せよ 大西忠治『発問上達法』

大西忠治『発問上達法』民衆社


指導言(しどうげん)という言葉を知っていますか?

教育界には「主体的・対話的で深い学び」のように一般の人が聞いても???となる暗号のような用語がたくさんある。
「指導言」もその一つだと思う。プロの教師の中にもこの用語の意味を知らない人もいると思う。
この本はその指導言について書かれた本だ。

指導言とは「教師が、授業中に発する指導のための言葉」のことを言う。別の言葉で言うと発問・説明・指示のことだ。

<発問>
子供の思考に働きかける指導言
「そのとき、Aはどんな気持ちだったでしょう?」
「バラは、なぜ枯れたのでしょう?」
「日本とインド、人口が多いのはどちらでしょう?」
という5W1Hを基本として表されるもの。

<説明>
思考と行動の中間、堀裕嗣によると、授業のフレームや指示、発問の前提をつくる指導言
「今日は方程式の解き方を勉強します。」
「最初にAさんが自分の意見を言います。そのあとBさんから順番に意見を言っていきます。人が意見を言っている間は喋りません。時間は全部で8分間です。」
「私の意見は〇〇だと思います。」
のような、教材内容を提示したり、教材の理解方法の提示をしたり、教師の判断を提示したりするもの。

<指示>
子供の行動に働きかける指導言
「静かに立ちなさい。」
「全文を読んだら座りなさい。」
のような活動を促すもの。

この中で大西は、

「授業において、一番大切なのは、発問ではなく説明である」

と明確に述べている。このことについて分かりやすい例が堀裕嗣『アクティブ・ラーニングの条件』に載っているので、挙げておく。


  よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげることがあります。それに気づいた教師が何度も言い直しているのを見ることがあります。例えば、「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。


この場合、悪いのは発問ではなく、AとBとを理解させる説明が不適切であるということになる。

 発問には多様な考え方が子どもから出される「ゆれる発問」や、答えが決まっている「動かいない発問」があること。指示は「一指示一行動」が基本であるが、子どもが一つの指示でしか行動できなくなるおそれがあるので、「多指示行動」へ移行していく必要があることなど、基本的な授業技術について述べられていた。

ま あ、基本でしょ。と思うが、今まで大学の授業、区内の研修や校内の研究などで、この基本について教わった覚えがない。堀裕嗣をはじめとする本を読んで、この言葉の定義を知った。
特に校内の研究会では、もっと教師の指導言という視点で議論があってもいいと思う。「子供の姿から教師の指導言の適切さについて語る」「この場面での適切な指導言は何だったか」のようなことを講師の先生はもっと話してもいいと思う。

 堀裕嗣によると指導言は攻めと受けがある。教師が指導案を進めていくための指導言が攻め。実際に子供の反応に合わせて、その応対として発せられるものが受けの指導言となる。大西によるとこの受けの指導言は「助言」という言葉で説明されている。
 一つの授業はこの攻めの指導言3つ、一つの攻めの指導言に対して5つの受けの指導言(助言)という組み立てが基本になるということも述べられていた。

 1988年に書かれた本であり、古典と呼ばれるものだと思う。巨人の肩に乗るというが古典を読むと、今までの教育研究の文脈が分かる。斎藤喜博、向山洋一、無着成恭などが引用されていて、他の古典も読みたくなった。

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