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「人間原理」をめぐる妄想

数年ごとに頭をアップデートするために宇宙論を読んでいる。手に取ったのは野村泰紀『なぜ宇宙は存在するのか』。いつもながら当方に能力の限界があり、細部まで読みこなせたとは到底言えないが、ひとつ目からウロコの知見を得た。

いわゆる人間原理にかんすることである。なぜこの宇宙は人類のような知性を持った生物を生み出したのか? それは宇宙がみずからを認識できるようにするため、という… とはいえ、ビッグバンから今日までを振り返れば無数の関門があったわけで、しかもその各々の通過可能確率は極微であった…

ロジャー・ペンローズはその確率を10の10の123乗分の1と算出したとか。

科学的細部についていけない素人の特権としてわれわれはつい、人類を知性を創出するためにこそこの宇宙は生まれたと思いたくなる。

ところが、この本が説くように、宇宙は無数にあって、かつ泡のように生まれ続けているのだとしたら、さきほどの確率はさほど不思議でも神秘的でもなくなることに気づく。すなわち、この宇宙は無数の宇宙の中のひとつにすぎず、たまたま高等生物や知性を生むことができるパラメーターセットを持った宇宙だったのだ。

いわゆるマルチバース論(いわゆる多世界解釈論)である。従来は数式が勝ちすぎた、検証不能の理論と言われてきたが、じつは現在の宇宙論で謎となっているある定数を説明できる可能性のある最も有望な説らしいのである。著者によれば将来的には他世界=外部宇宙の存在も検証可能というからすごい。単にすごいとしか言いようがない。そのころに自分が生きているとは思えないが…

人間原理にとって残る問題はひとつ。宇宙の自己認識を担わされたのは地球人類だけなのか、それともこの広い宇宙に隣人はいる(いた)のか、という問題。

いる/いない、筆者の粗い観測網によると圧倒的に前者が多数派のようだが、自分は歯切れの悪い後者である。すなわち、神の視点からは隣人が存在するとしても、われわれ人類が遭遇できなかったら存在しないのと同じだからである。そう、遭遇できるとは思えないのである。

最近よく耳にする系外惑星探索だが、なかで地球に似た惑星が見つかったというニュースで漏れ聞くアナロジーの粗雑さについ笑ってしまうのである。やれ恒星からの距離がハビタブルゾーンにあるだの、大きさが似ているだの、水が存在するだの、上記ペンローズの確率に対したときに比較のオーダーが大きすぎると思えてしょうがない。

あのオウムアムアが、Avi Loeb博士が主張するように、太陽系外から飛んできた「人工」物だったとしても、「次」がいつのことになるやら… 果てしもない話である。

かくして、マルチバース論によって「人間原理=自己認識する宇宙」の存在は納得できたとするとペンローズの確率の凄みは氷解するわけだが、その知性がほかでもないこの地球でのみ実現したと考えうるほどには生きているようにも思えるのである。

以上、無用老人の妄想である。妄言深謝。

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