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サッカーが教えてくれたこと

第1章 立ちはだかる壁

 僕がサッカーを始めたのは小学1年生の頃。季節は覚えていない。それくらいぼんやりしている。通っていた小学校で練習しているチームがあったのでそこへ入団した。両親は特にサッカーへのこだわりがあったわけではなく、とりあえず運動して体が丈夫になってほしいと思っていたらしい。なんなら父は阪神ファンなので野球をやってほしかったそうだ。そんな思いとは裏腹に僕はどんどんサッカーにのめりこんでいった。家の近くに広大な天然芝(と言っても雑草に近いが)のグラウンドがあったので、学校から帰ると近所の友達と毎日暗くなるまでボールを蹴っていた。そんな熱意が祖父に伝わったのか、家の前でもボールを蹴ることができるようにとわざわざ小屋の壁を頑丈な板に張り替えてくれた。力加減もせず思い切り壁に向かって蹴るので、ドンッ、ドンッ、と工事現場のような音が近所に響き渡る。その音を聞いた友達が集まってきてグラウンドへ移動してボールを蹴りに行く。いつしかその壁は近所の友達を集める今でいうグループラインのような役割を担うようになった。(もちろんその頃はスマホなんてない)家でもグラウンドでも思い切りボールを蹴ることができる環境にあった僕は、ボールを強く遠くに蹴るということに関しては自信を持てるようになった。またその頃、やべっちFCでフリーキック研究所というコーナーがあり、中村俊輔選手や遠藤保仁選手のキックを何度も見て蹴り方を研究した。小学6年の頃には南アフリカW杯での本田圭佑選手の無回転フリーキックに衝撃を受け、必死に真似しようと練習した。助走の角度、軸足の位置、ボールに当てる足の位置など、数センチ単位で調整する。そんな作業を飽きもせず黙々と繰り返した。試合でその練習の成果を発揮することはなかったが、ボールを蹴るということがただただ楽しかった。僕にとってサッカーは「ボールを蹴る」ことだった。試合中はどこでボールを持ってもフォワードの背後を狙って大きく蹴っていたような気がする。今思えばもうちょっと細かいパスの技術も磨いておけばよかったと思うが、まあそれはそれでいい。

 中学、高校へ進んでもサッカーを続けた。カテゴリーが上がるごとに求められるプレーの強度や質は高くなる。特に高校ではそれが顕著だ。今までサッカーを「ボールを蹴る」こととして捉えていた僕はうまく対応できずにいた。目の前の一瞬一瞬のプレーは頑張るのだが、ポジショニングもわからないし正しい判断でパスも通せない。だから全体としてどうやってボールを動かしていくかが正直よくわからなかったし、その流れに上手く入れていなかった。幸い前線の選手が上手かったので、ディフェンスだった僕はとりあえず彼らにボールを預けていれば点を取ってくれていた。チームに恵まれた。高校までサッカーを続けて少しは上手くなったような気がするが、戦術的な意味でサッカーはわからないままだった。そして何より、競技性が高まったことでサッカー自体を純粋に楽しめなくなっていた。サッカーをしている今という瞬間を楽しむということはなく、何か先の目標のために、成長のためにと、未来のために今という瞬間を犠牲にしているような感じがしていた。小学生の頃に「次はこうやって蹴ってみよう」とわくわくしながら試行錯誤していたサッカーに対する主体性は完全に失われていた。自分の努力不足と言われればそうかもしれない。部活とはそういうもんだと言われればたしかにそうかもしれない。でも、何か重要なことを見落としているのではないか。そんな違和感を感じていた。そして高校を卒業する頃、「サッカーとは何か」という漠然とした問いが目の前に立ちはだかった。この問いには大きく分けて2つあった。1つはサッカーの仕組みはどうなっているのか。もう1つは、ただ夢中でボールを蹴っていたあの頃のように、どうすれば誰もがのびのびとサッカーを楽しむことができるのか。この難題に立ち向かうことになった。


第2章 運命を変える出会い

 地元を離れ大学へ進学した。大学ではサッカーを続けなかった。あの問いへの答えを見つけるために、まず指導者としての道を歩み出した。大学の近くの小学生のサッカーチームでボランティアとして活動し始めた。今は地元のチームに関わっている。今まで子どもたちにサッカーを楽しんでほしいとの思いでやってきたが、その試行錯誤の中で少しずつサッカーに対する理解が深まってきたように思う。少なくとも高校の頃の「サッカーがわからない」という状態からはかなり脱却できた。まだまだ力不足だが、サッカーの仕組みという1つ目の問いに対する答えを自分なりに見つけつつある。ここでは、この問いについてこれ以上詳しく書かないが、これからも子どもたちと共に学び続けたいと思う。

 そして大学ではもう1つ始めたことがある。それが旅だ。(一見サッカーには全く関係ないが結局そこに戻ることになる。)田舎出身だったこともあって、広い世界に出たかったのかもしれない。こういう好奇心は子どもの頃から変わらない。まず高校時代の友人と共に自転車で四国一周の旅に出た。公園で野宿したり、ゲストハウスで同じような旅人に出会ったり、時には道ゆく人から差し入れをいただいたりと、今まで感じたことのない人との触れ合い方をした。これは面白いと思い、その後一人で日本縦断の旅に出かけた。旅の途中、福山のゲストハウスで出会った大学生にある言葉をかけられる。「発展途上国に行くといいよ」と。本人はちょうど東南アジアから帰った直後だったらしく、日本を外から見ると捉え方が変わるとのことだった。その時は何を言っているのかよくわからなかったが、とりあえず言われた通り初めての海外へ行くことにした。その頃本田圭佑選手がカンボジアの代表監督をやっていたということで、もしかしたら会えるかもと思い初海外はカンボジアに決めた。(もちろん会えるはずもない)かなり単純な考えだが、それは今も昔も同じだ。精神年齢は10歳の頃から成長している気がしない。しかし、そこでのある出会いが今後の運命を変えることになる。

 宿泊先のゲストハウスでバイクに乗ってやって来たおじさん(お兄さんと書こうかと思ったがやめた)と出会った。名前は洋さん。

中央が洋さん、左はレストランの店主

 バイクでカンボジアを一周しながら色んな場所でサッカー交流をしているらしい。「今日、近くのコートでサッカーしに行くけど、一緒に行くかい?」と誘われ、ついていくことに。一緒にバイクに乗ってコートに到着すると、溢れんばかりの人がサッカー(サイズ的にはフットサル)をしている。僕は人の多さと熱気に圧倒されそうになったが、洋さんは涼しい顔をしながら一番レベルが高そうなコートの人に飛び入り参加させてくれと話しかけている。ちょっとだけクメール語(カンボジアの現地語、普段は英語でも通じる)を話せるらしい。「このおじさん、さすがだ」と思った直後、すんなり日本人2人を受け入れてくれて一緒にサッカーをすることに。カンボジアの人たちは初めて出会う僕らに積極的に話しかけてくれた。そして、僕や洋さんが点を取ると、全力で盛り上げてくれた。それまで圧倒されていた熱気に対し、次第に人々の温かさを感じるようになった。その瞬間、初めてサッカーに愛されたような感覚になった。今までサッカーはチームに入ってやるものだと思っていたが、いつでも、どこでも、誰とでも楽しめるものに変わった。これが、もう1つの「どうすれば誰もがサッカーを楽しむことができるのか」という問いに対する答えにつながるのではないかと感じた。そして、このサッカー交流を世界中でやってみたい、純粋に楽しいと思える環境を伝えたいと思うようになった。その後、大学を卒業し、働いて資金を貯めた後、再び世界へ出ることになった。


第3章 サッカー文化とは?

 まず、東南アジアから旅を始めたが、その中で印象に残った出会いがある。カンボジアでのエンさんとの出会いだ。やはりカンボジアには縁があるのだろうか。街を1時間くらい歩いてやっと見つけたコートでエンさんと出会った。

一番手前がエンさん

 おそるおそる「一緒にサッカーしよう」とお願いすると温かく迎え入れてくれた。チームメイトもとても気さくな人ばかりでとても温かい雰囲気に包まれていた。まさに初めてのカンボジアで感じたあの瞬間と同じだった。そこで僕は思った。「なぜこの空間はこんなにも心地いいのか」「なぜ人々はこんなにも楽しそうにしているのか」と。僕なりに出した一つの答えがある。それは、「意味を求めないからだ」と。

 普段子どもたちの会話を聞いていると、「○○習ってる?」という言葉が飛び交っている。〇〇には、そろばんや習字、ピアノなど様々な言葉が入る。その中にサッカーや野球といったスポーツが入ることも珍しくないように思う。しかし、僕は「サッカー習ってる?」という言葉に違和感を感じずにいられない。「習う」という言葉の意味を調べると、”繰り返しやってみて(知識・技術を)覚え、身につけようとする。また単に、おそわる。教えを受ける。”と出てくる。たしかにサッカーにはサッカーを上手くなりたいと思い技術を習得していく側面もある。だから「サッカー習ってる?」という言葉はそういう意味では何もおかしくはない。僕もサッカーを「習って」きた一人であり、サッカーを「教えて」いる一人だ。しかし、それ以上に、ただ友達とボールを蹴るだけで楽しいという感覚の方が僕にとっては大きい。だから僕にはどうしてもサッカーを「習う」という感覚がしっくりこない。僕に取ってサッカーは「蹴ること」であり、その瞬間を楽しむものだ。「上手くなった状態」「試合に勝った状態」を目指して努力するのは素晴らしいことだ。ただ、注意しなければいけないのはその状態は「未来」にあるということだ。「未来」にばかり目を向けすぎて「今」を楽しむことができなくなっては本末転倒だ。「今」を積み重ねての「未来」なのだ。僕は極力何かをする時にその意味を考えないようにしている。意味を考え出すと、何かの目的や目標のために「今」を犠牲にしてしまう感覚になるからだ。だから、今この瞬間をどう楽しむかを大切にしている。おそらく子どもたちは意味を考えないと思う。意味を考えていたら泥遊びなんてしない方がいいだろう。僕も含め、なぜか人は大人になるにつれ、損得や合理性で物事を判断するようになってしまう。社会とはそういうものだと言ってしまえばそうかもしれない。ただそこに生きづらさを抱える人たちがいるのも事実だ。マニュアル通りの仕事、その合理性に収まらない人々の排除、そして日本の自殺率の高さはそういう風潮によってもたらされているのかもしれない。

 話を戻そう。エンさんたちは「未来」への意味を求めないことで「今」を全力で楽しんでいたのだと思う。他人に対して寛容であるから、心地よい空間になっていたのだと思う。サッカー文化とは、そういった人と人の温かな繋がりが紡いでいくものだと感じた。日本ではボールを使える公園が減っているが、そういった場所を提供するだけではサッカー文化の発展には繋がらない。「場」の中には必ず「人」が存在する。日本人が少なからず感じている閉塞感を打破するには、寛容なつながりを地域の中に再構築していくほかないと思う。まずはサッカーを通してそういった「場」を提供していきたいと感じたエンさんたちとの出会いだった。もう1つの「どうすればサッカーを楽しむことができるのか」という問いの核心に近づきつつあった。そして舞台はアフリカへと移る。しかし、ここで思いもよらぬ出会いが待ち受けていた。


第4章 突きつけられた世界の現実

 エンさんたちとの出会いの1年後、アフリカのウガンダへ向かった。アジアを出てみたかったというのと、本田選手がウガンダのチームを運営しているということでなんとなくウガンダに決めた。(またしても単純)そしてなんとそのプロチームの練習に参加させてもらうことができた。(といっても筋トレがほとんどだったが)他にも草サッカーチームに飛び入りで参加したり、空き地で子どもたちを集めてサッカーしたりと楽しんでいた。そんな時、青年海外協力隊の隊員の方と知り合う機会があり、スラム街を案内してもらった。そこである少年と出会う。

赤ちゃんを抱え赤い服を着ている子がその少年だ

 その少年は目がうつろになっていた。無理もない。彼は元々学年で一番の成績を取るほど優秀だったが、母親を亡くし、ストリートチルドレンとして洗濯などの仕事をしながらなんとか生きていかざるを得なくなった。最近家に帰ることができたようだが、家の衛生環境もひどいものだった。貧困、紛争、難民、孤児といった問題を凝縮して突きつけられた感覚だった。今の自分には何もできない。ただ、手を握りしめることしかできなかった。と同時に、サッカーの無力さも感じた。この現状を目の前にしてサッカーに何ができるのか。サッカーをしたところで生活が改善するわけでもないし、そもそもサッカーをできるような状況ではない。今まで蓄積してきた自分に対する、そしてサッカーに対する自信が打ち砕かれた瞬間だった。なぜこんなにも世界は不平等なのか。そしてその改善に向けて何ができるのか。大きな苦しみを抱えたまま、旅の最後の舞台へと移る。


第5章 サッカーという名の希望

 東アフリカの小さな国、ブルンジへ向かった。初めて聞いた方も多いと思うが、僕もほとんど知らない国だった。偶然Youtubeでボロボロの服を着た少年たちがタイヤを転がしながら遊んだり、ゴミ袋を丸めてサッカーをしたりしている動画を見て、実際に行って現実を知りたいと思い、高いビザ代を払ってまで入国した。ブルンジでは認定NPO法人テラ・ルネッサンスの職員の方々にお世話になり、フィールドワークに参加させてもらった。簡単な説明になるが、テラ・ルネッサンスではストリートチルドレンや最貧困層、シングルマザーを対象に職業訓練や、訓練期間中の生活必需品の提供等、路上生活をせずとも収入が得られる環境づくり、また保護者の収入を安定させることで子どもたちが日中学校へ通える環境づくりを支援されている。色々見学させてもらった中で特に印象に残ったのは、洋裁(服やカバンを作る)訓練を受けて自分で店を開業した女性だ。腕に障害を抱えながらも、高い技術で多くの人々に喜ばれる服を作っていた。僕には想像できないほどの苦しみを背負ってきたと思うが、それでも逞しく生きていこうとする眼差しは美しく、とても穏やかな表情をされていた。そんな出会いを通して、ウガンダで感じた苦しみは少しずつ和らいでいった。これは僕の推論に過ぎないが、テラ・ルネッサンスでは人が本来持っている心の美しさや優しさを大切にされ、その一人一人の力を信じておられるのだろうと感じた。

 そして最後に、テラ・ルネッサンスの支援のもと訓練に励んでおられる受益者の方々とサッカーをする機会に恵まれた。新しいサッカーボールをプレゼントしようとしていたのでちょうどよい機会だった。みんな水を得た魚のように生き生きとボールを追いかけている姿が印象的だった。(実際は僕が一番楽しんでいたかもしれないが)テラ・ルネッサンスではカウンセリングの時間にサッカーを取り入れることで、周りの仲間や職員との関係が良好になり、訓練により励んだり自分の思いを伝えたりすることができるようになっているそうだ。自立への一歩となる、まさに「平和のためのサッカー」だ。この時、サッカーが人々の役に立っていることを再確認したと同時に少し安心したのを覚えている。

テラ・ルネッサンスの方々との記念撮影

 それともう一つ感じたことがある。カンボジアでサッカーをしているエンさんたちの雰囲気と、ブルンジの人たちのそれとは少し違っているような感じがした。楽しんでいるという点では一緒だと思うが、ブルンジの人々には「僕たちは生きているんだ」という強烈な意志を感じた。おそらく彼らの人生は言葉では表せないほど大変なものだと思う。過酷な現状の中でなんとか生きようとする力強さをサッカーをすることによって表現しているように感じた。彼らにとってサッカーは「生きるため」にあり、サッカーそのものが「生きること」なのだ。サッカーでこの過酷な現状を変えることはできないが、過酷な現状をなんとか生き延びていくことはできるのだと思う。この「なんとか生き延びていく」ことを支えていることにサッカーの価値を感じた。これからも、サッカーには彼らの「生きる支え」となり続けてほしいと願っている。

 サッカーは生きるためにある。それがこの数年に渡った旅の答えだ。僕も彼らのように今を必死に生きていこうと感じた。


第6章 未だ果たせぬ約束

 さて、話はかなり前に戻る。第3章で東南アジアへと旅立つ前に友人に描いてもらった絵がある。

タイトル「Between」

 まさに旅の動機はここにある。この絵のように、人種を超え、言語を超え、ボールを通じてつながっていけることを表現したかった。そしてサッカーにはその力があることを証明したかった。自分で評価するのもあれだが、それなりにできたんじゃないかと思っている。(詳しくは上のリンクからYouTbeをご覧ください)でも唯一心残りがある。ウガンダで出会った少年に対しては何もできなかった。しかし縁というのは不思議なもので、来年から青年海外協力隊としてウガンダへ派遣されることが決まった。そして派遣先は彼と出会った場所からほど近くにある。今頃彼がどこで何をしているかはわからないが、もし来年関わることができるのなら、僕にできることをやっていきたいと思っている。


第7章 微力だけど無力ではない

 ここまで長い文章を読んでいただいた皆様、ありがとうございます。あともう少しです。(笑)

 自分の人生を振り返ってみることで気付いた大切なことがあります。それは自分の心の声に正直になることです。そして違和感を無視しないことです。自分が心の底からやりたいこと、それは他の人も一緒にやりたいことかもしれません。誰かを勇気づけることかもしれません。あなたが感じている違和感、それは他の人も感じているかもしれません。一緒に立ち上がってくれるかもしれません。「どうせ僕なんて」「そんなことで変わりはしない」いろんな声が聞こえてきそうです。実際僕もそう思う時もあります。つくづく人間は弱い存在だと感じます。そんな時、決まって思い出す言葉があります。テラ・ルネッサンスの創設者、鬼丸さんの言葉です。

「僕たちは微力だけど無力ではない」

あなたのほんの小さな勇気がこの世界を変えていくのです。


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