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死を喰らいながら生き抜くもの達へ。

先日、当方製作映画の「DieAter2 PANDEMONIUM」の東京ドキュメンタリー映画祭in大阪編が無事終了しました。これによって現段階で決まっている劇場での公開は終了です。

そのほかにもいくつかのコンペに出品しましたが、落選でした。現在も選考中のところもありますが、これはまだどうなるかわかりません。

また、今後とも劇場でご覧いただけるよう準備しておりますので、またお会いできる日も来るかな?と思います。なお、当事者の方におかれましては、続編へのアンケートを答えていただければ「オンラインVer」をご覧いただくことが出来ます。

また過去作にあたる「DieAter documentary of ED“摂食障害”」はYouTubeで公開してますのでご覧いただけます。

とはいえ、やはり映画は劇場で見ることに意義がありますね。多くの方と同じ時間を共有することも、改めて大切だと感じました。

この機会を与えてくださった、東京ドキュメンタリー映画祭の委員会の皆さま、東京、大阪のそれぞれの劇場、そして足を運んでくださった皆さまに改めて感謝いたします。

なぜ「摂食障害」なのか?

大阪の舞台挨拶ではかなりテクニカルな質問をいただき、映画監督っぽいお話をしました(笑)演出にこだわった点や、EDMを使った理由など、お話させて頂きました。まあそういうのは、気になれば聞いてくだされば。

さてそうした中で、いくつか質問頂たことについてまとめておきます。

Q,「どうして摂食障害をテーマにしようと思ったのか?」

A,「自分は当事者ではありません。家族にもおりません。その中で摂食障害を選んだことには、3つほど理由があります。

1つは、わたしは10代の頃から“心の問題”に興味関心があり、実際に臨床心理の大学にも進んでいます。辞めてますが。

その興味関心は今も変わっておらず、なんにせよ“心の問題”をテーマにすることは決めていました。その中で“摂食障害”は、最も心の問題をつぶさに表しているように感じましたし、また過去にドキュメンタリー映画は製作されていません(国内では)。

誤解を招かないようにはしたいのですが、題材として適切であったというのが1つの回答になります。

2つ目は、いまいち言語化できていなかったのですが、思っているようなことが、先日上辞された高木医師の“摂食障害のすべて”に書かれておりました。

この疾患は“文化結合性疾患”とも呼ばれており、社会や文化に大きく影響を受ける側面があります。わたしは当事者の“社会を見るレンズ”を借りているようなものです。

社会問題を考えるうえで、当事者の方々の見ている世界は非常に重要だからです。

3つ目は、軽く考えているわけではないのですが、まあ友人がたくさんいるからというのは間違いなくありますね」

このようにお話しました。改めて文章に起こしても、やはりこれが摂食障害を題材に選んだ大きな理由かなと思います。

映画にはなすべきことがあります。それは“社会を変えようとすること”と“それを共有すること”です。

個人の体験をもとに、それを感情に落とし込むような作品もたくさんあるし、昨今ではそういう作品の方が多くあります。観れば「楽しめたり」「喜べたり」「悲しめたり」「怒れたり」するものです。

その感情を誰かと分かち合うこと、これも映画の楽しみ方としては良いものだと思います。

しかし、わたしにとって映画とはもっと大きなものであって、個人の体験を超えていくこと。感情に対してアプローチをするわけではないこと。これを意識しています。

社会を変えることは出来ないだろうか?と問いかけること。それを可視化し、共有することで、個々の“行動”や“意識”を変えること。それが映画の役割だと思っています。

咀嚼したら終わってしまうようなものではなく、その意味を長く、深く考えていけるような。

なお“東京ドキュメンタリー映画祭”に選出されている作品は、そうした作品ばかりで、本当に素敵な映画祭だったと思います。

商業主義から離れていく行為ではあるので、非常に大変だろうなと、バリバリ商業主義の映画産業に携わっていたわたしとしては、いろいろと感じることがありまくります(笑)

摂食障害を見てきて何か変化を感じたか?

こんな質問も頂きました。監督という立場で眺めてきて3年ほどが経ちます(それ以前から関わりはあります)。その中で何か感じたことはあるか、という質問でした。

これに関しては2つ思います。


1つは“加速度が変わっていること”です。あくまで個人的な感覚ですが、数年前と、今この瞬間と、罹患してから症状が重くなるまでの速度が(時間に対しての表現なので早さというべきなのでしょうがあえて)、かなり上がっている気がします。

事実として、症状が移り変わってはいます。10年ほど前に多かった症状と、今多い症状では、同じ摂食障害といえども違っています。10年ほど前には神経性食欲不振の制限型や、神経性大食症が多かったそうです。

今では神経性食欲不振の排出型や、神経性大食症で代償行為を伴うもの特定不能の摂食障害、が多くなっているようです。

どの症状が重症というわけではないのですが、そこにたどり着き、抜けられなくなるまでの速度が上がっている印象です。

これには雑感ですが理由はあると思っていて、やはり“情報”や“コミュニケーション”の速度が上がっていることが上げられると思います。インターネット、特にSNSの出現により、それは顕著になったと言えます。

30年前ならテレビ、20年前なら掲示板、10年前ならブログなど、そういったソースしかなかったのですが、今ではそこらに溢れています。こうした時代背景が、その速度を上げているのだとは思います。

以前記事にしたことがあるのですが、“摂食障害”は“意識の集合知”にアクセスするような感覚を持っています。個人の感覚とは別の、大きな感覚の中に飛び込んでいくイメージをしてくださると良いかなと。

その“大きな感覚”にいる最中、“わたしはわたし”ではなくなります。“わたしの外の誰か”にアクセスし、“わたしの中のわたし”が揺らぐような状態です。
いずれも同じ自分なのですが、そこに境界線が存在しているような。難しいですね(笑)

当事者が持ち、抱えている、独特の質感。それに対してアクセスをすることで、症状に複雑性が生まれたり、重症化したりする側面があると考えています。それをつぶさに言語化したのが“痩せ姫”という言葉です(元は書籍ですが実際にはその単語の方が先行しています)。

当事者は“言語”を介し、その感覚にアクセスしているのかもしれません。その言語を加速させているのが、すなわちインターネットですから、その影響が大きいのではないでしょうか。

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もう1つ思うのは、何らかの変化を感じてはいるものの、それをうまく表現できないがゆえに映画にしている、ということです。

ぶっちゃけドキュメンタリー映画の醍醐味でもあるのですが、特にわたしのような手法の場合、研究や調査みたいな部分があるので、撮影することで新たに発見することは多々あります。

これはひとえに出演してくださる皆様のおかげなのですが、それによって新たな“気付き”はあります。そのために次回作を撮り、その“何らかの変化”を形にしているのだと思います。

ゆえに“PANDEMONIUM”は、前作を撮った時に感じたことを詰め込みましたし、次回作もそうするつもりです。

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EMPTINESS

さて、そんなわけで現在も続編の製作を行っています。タイトルのみ決定しています。

DieAter3 EMPTINESS”というタイトルです。エンプティネス、と読みます。意味は“空虚”という意味です。

物のなかみ、または物事の内容をなす価値、あるいは心のより所が、何もないこと。からっぽ。人間の状態としての空虚は、一般化された退屈、社会的疎外、無関心の感覚です。

という意味が一般的にあります。なぜ、わたしがこのタイトルを付けたかは、完成した作品を観て考えてみてください。

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まだしばらくの間は、わたしは“摂食障害”の映画を撮り続けるでしょう。この先もずっと続けるかは、今は分かりません。

しかしながら“死を喰らいながら生き抜くもの達”と、そうでないもの達が、共に生きていける社会に、少しでも変わらなければ、変えなければ、わたしが映画と離れることもおそらく無いのでしょうね。

最期に大阪編で頂いた感想です。

「わたし何も知らなかった。無知でした。本当に。泣きました。次回も期待しています」

恐らく、摂食障害という言葉さえ初めて聞いた方だったのではないでしょうか。しかし、こうして直接言葉をいただけたことで、ドキュメンタリー映画やる意義を感じることが改めて出来ました。

きっとその人の「世界を見るめがね」は変わったはずだからね。

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