お父さん、お母さん、僕は「ひとえまぶた」で良かったよ。
私、実は6人兄弟です。
6人兄弟でnoteを毎日書いているのは私だけですが(笑)
兄、わたし、妹、弟、妹2、弟2(この写真は結構前のやつ)
という構成で6人である。まあ、次男ですね。
6人もいると面白いことが起きるのですが、わたしより下の兄妹は「お兄ちゃん」という単語が使えない。一番下の弟も「お姉ちゃん」が使えない。
どっちの?ってなるからだ。なのでうちの家では全員が名前で呼び合う。というか兄や姉は「〇〇さん」的な人称を使うけれど、「弟~」とか「妹~」とは呼ばないよね(笑)
さて、他にも6人いると違いが凄い。運動神経や学力の差はもちろんのこと、顕著なのは「食の好み」である。
皆が同じではないし、なんならうちはこだわりが強い舌が多く、同じものを食卓に並べられないので、母親は相当苦労したと思う。感謝。
ちなみに音楽とかゲームは割と似たようなものを好む傾向にあったが、好きになってからの没頭の仕方とか捉え方が違うので、結果的に派生する先が違った。スタートは同じでも、ゴールが全然違うってことだ。
ではタイトルの流れに。そんな6人兄弟だが、わたしを除く5人はみんな「ふたえまぶた」だった。父も母も、ふたえだ。なんならかなりクッキリ。
隔世遺伝なのかな、母方の祖父がひとえなのだ。ちなみに母方の祖母、父方の祖父祖母、みんな「ふたえ」だった。
そう、わたしだけ「ひとえまぶた」に生まれた。
これはそんなわたしと「ひとえまぶた」の物語である。
はっきり言ってめちゃくちゃ下に見られる
わたしのことを知ってる人なら、わたしが「ひとえ」なのは一目瞭然だと思うし、あとその中で結構な“目の細さ”ということはご存じだろう。
「ー ー」←これで表現出来ちゃうくらいには、細い(オーバーではないよ)
さて、そのことを誰かに指摘された回数を思い返してみるのだが、たぶん1万回くらい、マジで1万回くらい言われたと思う。
そのどれもが“悪意を持ったもの”というわけではないけれど、分類するとこんな感じ。
「目、細いね」→事実を述べましたって感じ。
「目、細いね(笑)」→笑いがつく感じ。茶化してる風。
「目、ほっそ!!!」→まあ茶化してるよね。
「寝てる?目開いてる?」→茶化してるね。
「惜しいね!残念だね!」→これもう侮辱だし悪口。
大別するとこんな感じで、ニュアンスとか語彙は微妙に異なっているけどね。
あとはイラストとかで表現されたりすることもしばしばある。わざわざ取り上げて書くということね。普通に似顔絵を描いてるのは別。特徴だし。
わたしは「ふたえ」ではないのでよく分からないのだけれど、「目、大きいね」とか「ふたえだね」とか、単に事実を述べられることって、どのくらいあるのだろう?賞賛とか羨望の意味を込めているものは除く。
あと「ふたえ」なことをバカにされることはあるのだろうか?聞いたことは無いけれど、あるかもしれない。
けど「ひとえ」ほどは無いと思う。いや、無いだろう。
誰に言われるの?
これなのだが、答えは「全員」に言われる。
まず親族に言われる。
ふたえの兄に言われたことがある。「俺はふたえだ、お前はひとえで残念だなあ」というニュアンスかな。弟や妹はまあ、あんまり兄の悪口は言わないかな。
親戚にも言われる。「あんたあ、お兄ちゃんはふたえのイケメンなのに、あんたはお笑い芸人みたいやなあ!」と笑われたものだ。悪意は多分ない。
こちらには憎悪があったけどね。少年の心を傷つけるのには十分な言葉だった。
クラスメイトにも言われる。
思春期の子供たちにとって、ひとえのような、またそれに限らず、目につく身体的な特徴はとにかく言われやすい。
小学生くらいから、中学生くらいまで、何度も言われ続けた。「お前の顔は惜しいよなあ。目が。目がそれじゃなきゃあ、イケメンなのになあ」と面と向かって言われた。
わたしはその当時、別にイケメンに憧れていたわけでは無いけれど、惜しいとか言われて傷つかない人がいるなら、教えてほしい。
教科書にも言われる。ひとえは「劣性遺伝」と書かれてある。わたしの「ひとえ」は劣っている遺伝子なのか。
ちなみにこの劣性というのは、優れている、劣っている、という意味合いではなく、遺伝の在り方にすぎないのだが(今は顕性遺伝と潜性遺伝に改訂されている)、そんなことを中学生が理解できるはずもなく、ただ悲しい思いをした。
あまりにも悪い目にあいすぎるので、さすがに気になってきた。自分の「ひとえ」を恨めしく思ったし、アイプチをしてみたり、整形の値段を調べたりした。
鏡で目を見開き、おくぶたえなのかな?おくぶたえだよね?と自分を誤魔化して過ごし、学校でまた「目、ほっそ!!」と笑われて我に返るのだ。
わたしが悪いんじゃない。そう思いたかった。
しかし、世間がそうさせてくれなかった。テレビに映る人も、雑誌に映る人も、ぱっちりとしたふたえの人ばかり。“ぱっちりふたえを手に入れる方法!”なんて、良いもののように宣伝され“腫れぼったいひとえ”などと、悪いもののように宣伝される。
悪いのはこんな目に生まれてきたわたしだ。そう思うようになっていった。
近しい友人にさえ言われる。
かなり仲良くしていた友人にも、それをネタにその場の笑いを取られたことは何度もある。
もうこの頃になると怒る気力もない。むしろ自分の欠点が笑いに変わっていると思えて、うれしくさえ思った。
はっきりと侮辱されているのに、わたしは「嬉しかった」のだ。
そう思うしかなかったんだ。
そしてまたそれを感じることになる
大人になれば言われる機会は少しづつ減って来たし、社会もすこしづつ変容してきたので、ずいぶんとその痛みは和らいできた。
そういえば、缶コーヒーの“FIRE”のCMに永瀬正敏が出てきたときは、とても嬉しかった。
ひとえの俳優が、とてつもなく男前に映っている。永瀬正敏が男前なのは、ひとえだからではないと思うけど。
ふるまいやただずまい、いろんなものを総合して男前だろうから。それは「ふたえ」の人とて、同じことだとは思う。が、それを感じさせないくらいに「ひとえ」の持つネガティブイメージは強かったと思う。
今では切れ長の「ひとえ」がかっこいい、という声も聞こえてきて、少しずつ市民権を得ている感じがする。
そして何より私自身が変容し、外見で優劣を測られる社会そのものからぐっと距離を置いて生きるようになった。
例えば素晴らしい映画を撮れることや、誰かのために文章を書いたりすることや、美味しいコーヒーを作るために情熱を注ぐような社会で、容姿のことを言われたことは、殆どない。
だって関係ないからだ。
恋愛や婚活の話が取り巻く場所や、ヒエラルキーの強い社会からも、距離をとった。文化的な社会の中で、容姿についてあれこれいう人は殆どいないのだ。
だって関係ないからだ。
その選択をしづらかった少年時代や学生時代に、この苦しみの殆どが詰まっていた。
しかし忘れたころにそれはやってくる。
みんな、悪気はなく言っているのだと思うのだけど、子供が生まれた時、そっと声をかける「お母さんに似てふたえに生まれてよかったねえ」と。これは今に始まったことではない。幼少期にも、同じようなことを聞いた。
ひとえに生まれることは、ダメなことなんだ。
わたしのなかの小さな少年が、またひとえを呪っている。
悲しかったのはひとえで生まれたことではない
オーバーに書いていると感じる?
もしそう感じるなら、あなたは「ふたえ」なんだと思う。もしくは生育環境が良かったか、生活レベルが高かったがゆえに、ここまで拗らせずに来れたんだろう。
日本で大人になって、「ひとえ」に対する“ネガティブ”な意見を聞いたことが無い、という人はきっと殆どいないはず。そして、悲しいことに指摘された人も少なくないと思う。
「気にしすぎだよ!」と思うかもしれない。じゃあ1万回くらい言われてみてください。
いやそんなに言われなくていい、たった一度だけでも、身体的特徴を侮辱されると傷つくのには理由がある。
「そんなに嫌なら整形でもして変えたらいいじゃん!」と思うかもしれない。
あのね、言わせてもらうよ。
嫌なんじゃあないよ。自分の大切な大切な身体の一部のこと、嫌いな訳ないじゃないか。
わたしが傷ついたのは「嫌だと思うひとえに生まれたこと」に対してなんかじゃ全くない。
「好きだと感じている自分の体を侮辱されたこと」に傷ついているのだ。
わたしはわたしの身体がどんなものであれ、とても大切に感じているし、とても誇りに思っている。それを“あなたの物差しで侵害してきたこと”に対して深く傷ついていたのだ。
しかしそれを主張しても、まったく通らないくらいには社会の中で「ひとえ」に対するネガティブな意見が蔓延していた。だからわたしは「自分を嫌いになること」でしか、社会と同調する術が無かったのだ。
こんなことが、ずっとまかり通っている。
ちなみにわたし自身は整形したいとは思わないけれど、整形ということ自体は特に否定的ではない。
悩んだ末に、その特徴が自分でも嫌だとやっぱり思うならば、変えたらいいと思うし、自分を好きになろうとすることはすごくいいことだと思う。
けれど「他人に合わせることで自分の尊厳を取り戻そうとしている」のであれば、それはちょっと待ってほしいとも思う。
他人に傷つけらた尊厳を、他人の承認で取り戻してはならない。その行為には終わりが無いからだ。
ルッキズム
この外見に関する差別は、ルッキズムと呼ばれて、海外などで大きな社会問題になっている。詳しいことは調べてほしいのだけれど、要するにこういうこと。
「外見にもとづく差別」であり、特に「身体的に魅力的でないと考えられる人々を差別的に扱うこと」を指す。 外見至上主義という呼称もほぼ同義として扱われる。
ちょっと難しい問題なので、ここでは簡単にしか紹介しないでおく。そして何より、わたしだって過去にこの“ルッキズム”に加担していた可能性は大いにあるし、今だって全然ありえる。
ひとえという明確な問題と向き合って生きてきたからと言って、わたしが加担者にならないという条件ではない。だからこそ、この問題は難しい。
しかしながら、確かに日本では「ひとえ」に対するネガティブなイメージはいまだに横行しているし、外見至上主義に近い様相のメディアはたくさんある。
例えばオリンピック選手が活躍したときに「美人〇〇」という紹介なんかがそうだ。一見すれば、賞賛のように思えるかもしれないそれは、差別にあたる場合がある。特にメディアにいおいては。
だって容姿は関係ないしな。活躍したことと。
個人で色々思ったり、それを友人と話したりするところまでは、正直抑制出来ないだろうし、そこまで抑制するものでもやっぱりないと思う。
ただ他人に向かって、ネガティブなものを、ぶつけるのは止めた方が良い。そこに悪意が無かったとしても、人は傷つくことがある。当たり前に。
とてつもなくありがたかったこと
たいぶ拗れた文章になったけれど、大体noteは勢いで執筆しているので、感じていることがついつい出ちゃう。
ただ不快に思った方には謝罪したい。
正直、この問題に関して「なるべく誰かを傷つけないようにする」という手法を選べるほど、自分の中でまだ折り合いがついていないということだ…(笑)
傷ついていたんだなあ、わたし。
しかし、その中でひとつ救いがある。それは先ほど書いたことを覆すことになるのだが、実は「全員」に言われたわけではない。
もちろん、そんな無礼なことをしない友人の方が多いし、そこまでネガティブなイメージを持っている人が多いわけではないとも思う。
あくまでいくつも浴びせられてきた言葉が、自分の感情の中で増幅されたがゆえの判断だ。
そういう背景もあるのだが、それよりも何よりも「両親」だけは、わたしのこの「ひとえ」のことをただの一度も悪く言わなかった。
それに限らず、外見のことを悪く言われたことは、たったの「一度」だってなかった。わたしの両親は容姿のことで他人を侮辱するようなことを、やらない人だった。少なくともわたしの耳には入ってきていない。
まあそりゃあ、いろいろあるから両親に傷つけられたことは全然あるのだけど、この部分のリテラシーは少し神経質だったように思う。
誰かの容姿を侮辱することを嫌っていた。だからこそ私たち子供達にはお笑い番組を見せないようにしていたしね。わたしがお笑い番組を見たのは中学生になってからだと思う(この辺からある程度ゆるくなった)
わたしが誰かにそれをすれば烈火のごとく怒ったし、整形や刺青・タトゥーにも否定的だった(繰り返すけどわたしはそのどちらも反対ではないよ)。
わたしが自分の身体に否定的な時は、決して怒らず相談に乗ってくれた。その考え自体を尊重してくれていたように思う。
基本的な考えのベースに「身体というのは天からの授かりものであり、それをどれほど大切に扱うかが生きていく上で大切」というのがあったからだと思う。まあ、これは恐らく仏教的観念から来ている気がする(うちは仏教徒だったから)
そういうこともあり、わたしは自分の身体のことを基本的に大切に感じていられる。
まあそれを疑わせるくらいの破壊力がこの「ひとえ」に対するネガティブなイメージなんだと思うと、悲しいことに親御さんにさえ悪く言われている人はいるだろうから、その心情は筆舌にしがたいものがある。
どんな容姿でも人は素敵だよ。と、言いたい。
そして本来は言わなくてもいいはずの言葉なんだけど、今はまだ言わなくちゃいけない言葉を言う。
「それでも、わたしはわたしのひとえがとても気に入っているよ」
最後に
実は、わたしが遺伝したであろう、母方の祖父は「韓国籍」である。
大人になって、いろいろなことを学んでいく上で、この「ひとえ」や「細い目」を揶揄する、アジア人に対する差別があることを知った。
恐らくそんなことはみじんも知らないであろう人々が、わたしの「ひとえ」を侮辱してきたのであろうし、それは人種差別とは別の問題だとは思う。けれど、そういう問題が地続きにあることを知っておいてほしい。
そして、どうか周りの友人や家族に「あなたの身体は大切な大切なあなただけのもの。そしてそれはあなたのお友達もそう。お友達の身体はその人だけの大切なものだよ」ということを教えてあげてほしい。仮にそれを悪く言っていい人がいるとしたら、それは自分だけだ。
そのうえで、その身体を扱いながら他者と生きていくのが、この社会なのだ。
かしこ。
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