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輪郭がぼやかされた世界は退屈

ここしばらくは落ち着いた日々を過ごしている。減らした薬も身体に馴染んできたのだろう。医者には元々の量が少ないから一気に100mg減らしても大丈夫と言われたけど、怖くて50mgにしてもらった。そしてちゃんと減らした分だけ波の揺れを感じた。私は人より敏感なところがあるみたいだから、薬も効果を感じやすいのかもしれない。

どうやったら薬を飲まずに躁状態を抑えられるのか、という質問を医者へした時に、薬を飲まずに済むなら病名は付かないと言われて、ある意味医者らしい解答だなと思った。私はほんの数年前までは薬に対して全く抵抗がないタイプの人間で、少しでも調子がおかしいと病院へ駆け込み、常時何かしらの薬を飲んでいた。そんな私が薬を飲みまくって出した結論は、"何にも解決しない"だった。初めての鬱で抗うつ剤を飲んでいた時も、声の調子が悪くて病院をハシゴしていた時も、インフルエンザにかからないようにワクチンを打って毎年インフルエンザにかかっていた時も、問題を先延ばしにしているだけで解決はしない。何かに頼りたくなるほど弱っている自分自身をなんとかしてあげなければ、そこからの脱却はできないと気づくまでには何年もかかった。もちろん最初は補助として薬が必要な時もある。でも自転車に補助輪を付けたままでは、いつまでも乗りこなすことはできない。転ぶのを覚悟して外してみるのか、安全確保のために外さないままでいるのか、どちらを選ぶかは医者ではなくきっと自分自身なのだろう。


外してみた結果、最初はやはりボロボロになった。薬に頼れば簡単に楽になれるのに、何でわざわざこんなハードモードを選んでいるのか自分でも分からなくなる時がある。ゲームだってあまり難しすぎると楽しくない。それでも外したいと思うのは、そっちの方が世界がはっきりと見えるし、見たいからだと思う。

薬というのは痛みを紛らわせたり、緩和させたりするためにフィルターをかける。薬を増やせば増やすほどそのフィルターは分厚くなり、モヤがかかったように感覚が鈍って世界の輪郭が分からなくなる。だから痛い、辛い、苦しい、悲しいといった負の感情を回避できると同時に、嬉しい、楽しい、愛しい、美しいといった正の感情も抑え込まれてしまう。この2つは表裏一体で、どちらか片方を選ぶことはできない。悲しさの中には美しさがあったり、痛みの中には愛しさがあったりする。負の感情に耐えられなくてフィルターをかけるのだけど、同時に抜け殻のような、空虚な世界へと誘われる。

その場所は様々な感情にいちいち揺さぶられることなく、一見穏やかで、生きていくには何の支障もないように思えた。どうやら世の中にはこんなことで悩まない人たちもいるらしく、鈍感でいられることに対して憧れを抱く時さえある。でも、どこか物足りなさがある。たとえ負の感情に苛まれたとしても、代わりに感じられる世界は圧倒的に美しい。時に理不尽で、残酷なシーンさえも美しく演出していく。それらを感じ取ることができる人間としての権利を使わないのは、やはりもったいない。

勝手に蓄積されていく感情の使い道を探し、音楽や絵や文章などのアウトプット先を見つけて上手く放出する方法を身につけた私は、今や感情に揺さぶられることを望んでいる。芸術は現実世界からの逃避行動だと誰かが言っていた。それならば、逃避したくなるほど真剣に生きていなければならないだろう。私は表現者であり続けるために、この身体と心の隅々まで使って、入ってくるもの全てを受け止めていく覚悟をしたのだと思う。今の私の眼に映る世界は、前より少しだけ輝きを増した気がしている。

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